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年間第17主日(A)年の説教

マタイ13章 44~46節
( 長いバージョン= 44~52節)

◆ 説教の本文

「天の国は次のようにたとえられる。」

〇 「畑の宝」と「高価な真珠」の 喩え話(parable)は、 人としてしごく合理的な行動を言ってるようにも思えます。
畑に価値10億円の宝が隠されているのを発見して、1000万円でその土地が 買える。それが本当なら、誰でも借金してでもお金をかき集めて、その土地を買うでしょう。わざわざ福音書に書く理由はありません。

しかし、これは「神の国」(マタイ福音書では「天の国」)についての喩え話です。そして、マタイ福音書は、神の国がどのような場所かではなく、人はどのようにして神の国に入っていくのかを語ります。
これは一見、不思議に思えます。
普通なら、まず神の国はどんなに魅力のあるところかを語り、人々にそこに入るように招くはずではないでしょうか。そして、そんな 良い素晴らしい場所に無償で入れるはずがないのですから、最後にそこに入るためにはどういう条件を満たすことが必要かを語るのではないでしょうか。
しかし、この不思議な語り方にこそ、神の国の何たるかは顕れると、マタイ福音書は言っています。


「畑に宝が隠されている。」

〇 神の国の価値は専門家に査定してもらって、〇〇 億円とわかるようなものではありません。宝は畑に隠されているのです。発見した人は、ほんの片鱗を見ただけです。神の国の全貌はまだ見えないのです。しかし、彼はその宝の価値を予感したのです。彼は支払いをするまで、その宝を自分のものにすることはできません 。それでも今、支払うのです 。
これは先物買いの投機ようで、非常に思い切りの良い人のように思われます。聖人と呼ばれる人たちはそうしたかもしれませんが、私たちにはそこまではできないと思います。

これは私の持論ですが、「福音書で短時間のうちに起こることは、我々にとっては長い時間をかけて、少しずつ起こる」。
例えば、出血が止まらない病に長年苦しんだ女性は、イエスの服に触れて、その場で即座に癒されたとあります (マタイ9章20~22節)。マルコ福音書には同じエピソードがもっと詳しく語られています(5章25~34節)。
これを読むと「素晴らしい話ですね」とは思いますが、私たち自身の生活とはかけ離れた世界の話のように思われます。
しかし、これが数年、あるいは数十年かけて起こったことと考えると、もっと現実感のある話になります。

 ある日、イエスという人の噂を聞いた。その時は何とも思わなかったが、その後、いろんな場所で様々な機会に、イエスという人の言行に触れるうちに、次第に興味が持つようになった。この人に会えれば、私の問題は何とかなるのではないかと思うようになった。ある日、思い切ってその人に近づいた。すると、何かが変わりはじめた。


〇「見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」

同じように、畑の宝の話も、ある日、偶然に宝を掘り当てて、すぐに資金を調達して、畑を全部買い取ったという話とは限らないと思います。
ある日、畑のそばを通りかかって何か魅力的なものが地面から顔を出しているのを見る。そこで、自分が支払えると思う額を支払って、それを買い取る。しかし、次第に自分が買い取ったものが何であったかを理解するようになる。何を支払えばならないかを理解するようになる。

 私が洗礼を受けた時、私が見つけて買い取ったと思ったものは、たかだか自分にとって、それまでより居心地の良い場所でした。もちろんキリスト教では教会の意義はもっと大きいとは知っていましたが、それは私にはあまり関係がなかった。
私は洗礼を受けるのとほとんど同時に修道会に入ったのですが、そこでも買い取ったと思ったものは、やはり知的な関心をより自由に追求できる場所でした。そして、私が支払ったと思ったものは、結婚と世間並みの楽しみを享受する権利でした。私は読書以外にはほとんど 楽しみのない人間だったので、その支払いは「楽勝、楽勝」と思っていました。
ところが、実際にその世界に入ってみると、教会も修道会も思ったよりずっと 難しい、ややこしいところでした。私は最初に考えていたよりも、ずっと大きな支払いを求められていることが分ってきました。

その反面、教会(修道会)の難しさや、ややこしさに対処しようと苦闘するうちに、福音の意味が少しずつ分かるようになったと思います。教会(修道会)で何の問題もなく、順調に過ごせていれば 、キリスト教信仰は、私にとって優れた道徳的教えか、自己啓発的知恵の高級なものに過ぎなかったでしょう。
やがて、イエスキリストその方が福音であり、神の国であることが分かってきました。もっと具体的に言えば、どこでも何でも話せる伴侶として、イエス・キリストという方を身近に持っていることが、私にとっての福音であり、神の国です。
この福音については、『キリスト教は役に立つか』 (新潮選書ーという本に詳しく書きました。同タイトルの 小冊子もあります。

〇 何が自分にとっての福音であり、神の国であるかは、人によって表現が違います。それはその理解に至るまでの個人的経験が違うからです。
しかし、あなたの神の国の理解と、そのためにあなたが支払ったものの間には深い関係があることは確かです。

私の理解も、あなたの理解も まだ最終的ではありません。そして、そのための支払いもまだ終わりではありません。

「あなた方はこれらのことが皆分かったか。」 弟子たちは「分かりました」と言った。


☆ 説教者の周辺
 福音書の中では、短時間に起こることが、私たちの生活の中では、時間をかけて、少しずつ起こる。これは、私が福音書を読む時に、しばしば適用する法則です。
そんな勝手な読み方をするなと言う人もあるでしょう。
しかし、私はこの法則に自信を持っています。
聖書はあくまでも人間に挑戦するものです。 生き方が安易になる方向に読み変えてはならない。しかし同時に、読む者に「私には関係がない」という疎外感を与えるなら、その読み方は間違いだと思います。