年間第2主日(B年)の説教
◆ 説教の本文
〇 次の主日の福音朗読は、マルコの福音書の召命物語(マルコ1章16~20節)ですが、それに先立って、今日はヨハネの福音書による弟子の召命が読まれます。
マルコの語る召命物語の構造は非常に簡単です。
「イエスは呼びかけられた」 「弟子たちはその呼びかけに従った」、ただそれだけです。非現実的なようですが、ある意味で、私たちの経験に合致しています。実際の出来事が単純で、短時間に起こったという意味ではありません。その過程をトコトン突き詰めて骨組みだけにすると、「イエスが私に呼びかけられた」 「私がその呼びかけに答えた」事実だけが残るからです。
「なぜ、あなたはキリスト者になったのですか」と質問されれば、私たちはいろいろと答えるでしょうが、本当のところ、自分が「なぜ」キリスト者になったのかという答えはないと思います。きっかけは色々あったでしょうが、決定的な「理由」というものはないと思います。
〇 それに対してヨハネの語る召命物語には、もっと時間の経過、紆余曲折があります。これはこれで実態に即しています。
まず、イエスを私に紹介して、簡単にどういう方かを告げてくれた人がいます。この場合は「神の子羊」です。これがケリュグマというものです。その簡単な紹介が弟子の心に触れた時に、イエスとの交流が始まるのです。
「ヨハネは‐‐ 歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の子羊だ』と言った。ニ人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。」
紹介する人(それは本の著者であるかもしれませんが)がなければ、 私たちはイエスという方を知ることはないのです。そして、イエスという方について知らせてもらわなければ (イエスの全貌ではないとしても)、従うということはないのです。
そして、イエスと弟子の交流の始まりから、対話があります。マルコでは呼びかけがあるだけです。
〇「何を求めているのか。」
この質問は、イエスとの交流が深かまるにつれて、要所要所で何度も起こります。経験としては、自問自答の形を取るでしょう。「いったい私はこの方に何を求めているのだろう?」。しかし本当は、イエスがそれを問うておられるのです。
「あなたは、この私に何を求めているのか?」
私の初期の答えは、「人間関係の解決を求めています」ということであったような気がします。私は対人関係の問題でクヨクヨ悩むことが多く、それを解決するヒントがほしかったからです。
このニ人の弟子は田舎の人だったせいか、その程度の答えさえできずに、 「えーっと、先生はどこに住んでおられるんですか」としか言えませんでした(笑) 。実は、この答えは深いものなのですが、弟子はその深さを理解していなかったでしょう。
〇 「来なさい、そうすれば分かる。」
イエスは、質問に対する深い答えを、今は求めようとはなさいませんでした。そして、「 ああ、そうか。じゃあ、一緒に来なさい 。そうすればわかるよ」 と言われました。
ヨハネ福音書におけるイエス様の対話には、一つ一つの問答をあまり突き詰めようとせず、あっさり次に行くところがあります。4章の「サマリアの女」との対話が典型的です(昨年の四旬節第三主日の説教を参照)。
「いや、そういうことを尋ねてるんじゃなくてね」とは言われませんでした。 そして、その時の弟子たちには適切な対応でした。
〇 「彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっているのかを見た。」
先輩の神父は、修道生活に招きたい青年を修道院に招くということをよくやりました。場所を「見る」ということは、修道生活を知る上で大事なメッセージになるからです。ほとんどの青年は、食事をして、テレビを見て、ということだけで終わりました。 しかし、何人かの青年はそれから先に行きました。
キリスト教信仰に関心を持つ人を、教会のミサや行事(バザー、音楽会)に招くということをもっと考えて良いと思います。
私たちは、現実のミサや教会行事を見た人々に良い印象を与えるという自信をあまり持っていないかもしれませんが、それが私たちの実際の姿なのです。実際の姿を隠し通して、綺麗な言葉だけで宣教しようとするのは無理だと思います。私たち自身も立派なミサやバザーだけを見て、キリスト者になったのではないのです。
〇 「そして、その日はイエスのもとに泊まった。午後四時頃のことであった。」
サマリアの女との対話にも、「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである」という記事があります。「午後四時頃のことであった」という記事には、弟子たちがイエスの死と復活から何年も経って、「あれは午後4時頃で、日が傾きかけていたなあ」と、イエスとの最初の出会いの出来事を印象深く思い出していることが伺われます。
〇 「何を求めているのか」というイエスの質問は、キリスト信者の歩みの中で何度も問われます。そして私たちはこの質問に、より深いレベルで答えるようになります。私がイエスに人間関係の悩みへの解決を求めたことは間違っていないと思います。キリスト教信仰を学ぶ中で得た人間関係の知恵を、説教で分かち合うことも積極的にしています。
しかし、今の私なら、イエスに本当に求めていることは「 人の思いを越えた平和、そこから来る自由です」と答えると思います。
そして、この平和と自由は、人間関係の悩みへの(自己啓発的知恵を超えた) 答えでもあるのです。私たちは、あと何年か、何十年か、地上を生きます。 もう一度、「あなたは、この私に何を求めているのか」と質問されることがあるかもしれません 。今の答えが最終的なものではないのです。
(了)