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復活節第5主日(A)年の説教

本日の福音:ヨハネ 14章1~12

◆説教の本文

「わたしの父の家には住む所ところがたくさんある。もしなければ、あなた方のために場所を用意にしに行くと言ったであろうか。」

 ヨハネ福音書は、イエスが長く話すのが特徴です。
13章でいわゆる「最後の晩餐」の様子が語られますが、14章から17章まで、イエスがほとんど一人で話し(祈り)続けます。
14章から16章までは、受難に向かう前のイエスの弟子たちへの告別説教です。17章は、これから苦難を体験するであろう弟子たちのための祈りです。そして、18章と 19章が受難の物語となっています。
つまり、今日の福音朗読(14.1~12)は、ヨハネ福音書の中では受難の出来事の前に置かれているのです。
しかし、典礼では「主の昇天」の前に読まれるようになっています。つまり、弟子たちを離れて行かれるイエス様の励ましの言葉として読まれるようになっています。
 しかし少なくとも、14章の冒頭は、イエス様が死に向かわれる前の言葉として読んだ方がよくわかります。イエス様が全力で、全身全霊を込めて、死という深い淵を突破された。そして、死の向こうに、私たち 信じる者の 一人一人のために場所を用意してくださっている。だから、私たちは「心を騒がせる」ことはないのです。その場所がどういうところかは、具体的には示されていません。しかし、イエスを信じ信頼するものにとっては、イエスが用意してくださった場所であるというだけで足るのです。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい。」

 現代のキリスト者は「自分の死」をあまり意識しないように見えます。決して、軽薄になったわけではありません。現代のキリスト者は、人類共同体の正義と平和について、より多く考えるようになったのです。それは理由のあることです。しかし、死の向こう側で、何が自分を待っているかを考えることは少なくなりました。まして、死について、死後の世界について、信者同士で語り合うことはほとんどありません。

 しかし、いつか訪れるであろう日の予感は、私たちの日々の行動に影を落としています。今度の北陸の地震のような出来事があると、その不安は表面に滲み出て来ます。死の向こう側に何が待っているのかを知らないから、せめて、死のこちら側では得られるだけのものを得よう、自分だけが損をしないようにしようとコセコセ立ち回るのではないでしようか。第一コリント書簡にいう「死の刺」とはこれではないでしようか。
「死よ、お前のトゲはどこにあるのか。」(15章55節)

 死の向こう側に、イエス様が私たち一人一人のために場所を用意してくださっていると信じることができれば、死のこちら側で、私たちはもっと自分の損得やプライドにこだわらず、寛大に人に与えることができるようになると思います。結局のところ、死の向こう側の世界の方がずっと広大なのですから。

「死は勝利にのみ込まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。」第一コリント15章54~55節

☆説教の周辺

 ヨハネ福音書には「父と子は一体である」という類の言明が多く見られます。今日の朗読箇所もそうです。「私を見た者は父を見たのである」という言葉は有名です。三位一体論を考えるには重要な箇所でしょう。
しかし、ミサの説教は神学を神学のために論じる場ではありません。三位一体の祝日には何とか説教をしますが。今のところ、この類いの言明が、人間の生活に具体的な接点を持つところを見つけることができないでいます。いずれ、見つかるでしょう。