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復活節第6主日(A)年の説教

使徒8章5~8,14~17節
第一ペトロ 3章15~18節
ヨハネ14章15~21節

◆説教の本文

 第一朗読の使徒言行録では、フィリポ(助祭)のサマリアでの宣教の様子が語られます。彼がキリストの福音を述べ伝えると、人々はこぞってその話に聞き入り、力ある業を行うと、人々は喜びに満ちます。
   しかし、私たちは そういう経験をほとんど持ちません。そういう経験が自分に起こりそうな気がしません。遠い古い時代のおとぎ話を聞いているような気がします。初代教会の華々しい宣教を自分自身に当てはめるためには、 比喩的解釈が必要です。しかし、第一ペトロ書簡のこの言葉は、現代日本の キリスト者にとって身近に感じられます。

  「あなた方の抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意を持って、正しい良心で弁明するようにしなさい。」

 私は、週に2回、デイケアに行っています。
もう1年以上、通っているので、スタッフの人や利用者とも顔なじみです。短い時間ですが、真面目な話をすることもあります。私がキリスト教の人間だということは知られているので、そういう話題に触れこともあります。
 こういう場所にいて感じることは、キリスト教信仰について、少し知りたいと思う人はかなりいるということです。もちろん、詳しい話を聞きたいわけではありません。ちょっと信仰の世界を覗いてみたいという感じです。日本では宗教に対する警戒感が強いと言いますが、それは教団的なものに対する警戒感です。それを抜きにすれば、宗教を信じている人の世界はどういうものかという好奇心はあるのです。私も、創価学会という団体はともかく、 創価学会に属している人は一体何を信じているのかには興味があります。

 「 何を信じているか」というより、「どういう希望を持っているのか」という方が対話になりやすいでしょう。「何を信じているか」と言うと、そんな馬鹿なことが信じられるかという話になりやすい。「イエス・キリストを救い主と信じている」と言っても、「イエスキリスト、それ誰?」という人が相手では話が続かないでしょう。
しかし、例えば、「私は死後の世界に希望を持っている」といえば、聴いてもらえる可能性は大きくなります。「 あなたは死後の世界がどうあってほしいと思うのですか」と穏やかに尋ねることは可能です。

  「穏やかに、敬意をもって」話すように勧められています。信じていることを頑張って話そうとすれば、教会を背負って立っているような気分になって、議論に負けてはいけないという心持ちになりがちです。語調も声も硬くなります。抱いている希望について話そうとすれば、柔らかい話し方になるでしょう。

 日本の宣教の基盤を養うのは、一人ひとりの信者の、知人友人との真面目で肩肘張らない会話です。教会の公的働きかけは、その基盤の上に立たなければあまり有効ではないでしょう。

ガラテア書簡に、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、 親切、善意、誠実、柔和、節制です」とあります (5章22節)。たまたま出会った人と キリスト教の告げる希望について、「穏やかに敬意を持って」話すことができるのは聖霊の恵みです。

 もうすぐ、聖霊降臨の大祝日です。
降誕祭には待降節という準備の期間があり、復活祭には四旬節があります。聖霊降臨にも準備の期間が必要です。
残りニ週間、聖霊の降臨を待ち望みながら過ごしましょう。そして、自分なりのささやかな宣教的会話を心がけましょう。