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聖霊降臨の祭日(A)年の説教 【改訂版】

使徒12章 1~11節
第一コリント 12章 3b~ 7, 12~13節
ヨハネ20章19~23節

◆説教の本文

 聖霊の賜物は、非常に豊かで 多様なものなので、この祝日に願い求める賜物を特定することはためらわれます。もちろん、私個人には、聖霊に願い求めたい恵みがあります。それは 「真率な言葉を語る」という恵みです。しかし、それを聖霊降臨の大祝日の説教とすると、 聖霊の賜物を限定してしまう印象があるでしょう。

しかし、説教をする以上は何か具体的なことを言わなくてはなりません。ただ、「聖霊の恵みを願いましょう」とだけ 言って、説教を終わりにすることはできません。
そこで、私は「 多様性の恵み」を 願うと言いたいと思います。そして、「多様性を喜ぶ 」恵みを願いたいと思います。

 多様性の喜びについて語るために、最近知ったイングリッシュ・ガーデンの話をしたいと思います。私は一日のほとんど室内で暮らしているので、晴れた日には車椅子で戸外に出て、少し陽に当たるようにしています。私の暮らしている修道院(パウロ館)の橫には細長いスペースがあって、色々な植物が植えられています。クリスマス・ローズ、ミュージック、いぬばら。これから、百合、くちなしなどが咲きます。世話してくれている庭師はアイルランド人なので、これはイングリッシュ・ガーデン風らしいのです。もちろん、小さなスペースですから、あくまでも「〇〇風」です。それでも 、イングリッシュ・ガーデンの趣き、楽しさは分かったような気がします。美しいというより楽しい。私はパウロ館に来るまで、庭を見る習慣を持っていませんでしたが、イングリッシュ・ガーデンとは楽しいものだと思いました。

   まず、植えてある花や草木の種類が多い 。多いだけでなく、入り混じって、植えられている。今、いぬばらが盛んに咲いていますが、その間から別の薔薇が一本、顔をのぞかせているという具合です。つまり、絵の具パレットのように区画ごとに、同じ草花がまとめて植えられているというのではありません。そして、花は刻々、咲き変わっていく。その姿は乱雑ではないが、いわゆる端正でもありません。花々は咲き溢れるという感じです。車椅子に座ってその中に佇むと、樹木や草花に包まれるような気持ちがします。子供の頃、バーネット女史の『秘密の花園』 という児童小説を読みましたが、子どもたちが出会う花園はこういうものかと思いました 。

 日本の庭は、植えられている草木の種類が少ないような気がします。色彩は緑系が強くて、変化が少ない。新聞やテレビで名所として紹介されるのは、必ず、桜とか水仙とか、一面に同じ花が大量に植えられている風景です。俳句には「花野」という季語があります。秋の草原に色とりどりの花が咲き乱れる様子を表します。アルプスのお花畑は花野です。だから 、そういう風景を美しいと見る感受性が私たちにないのではないが、日本ではあまり育たなかったようです。日本の庭は綺麗に刈り込んであります。角刈り、坊主刈り。外に向かって枝を勢いよく伸ばす、花が咲き溢れ出るという趣きではありません。そして、その中に包みこまれるより、少し距離を取って眺めるもののような気がします。縁側に座って眺めて、楽しむのが似合う。盆栽は欧米でも人気がありますが、日本の庭は、大きな盆栽なのではないでしょうか。

私はイングリッシュ・ガーデン風の庭が好きになりました。ここから教訓(moral)を導き出すなら、多様性の魅力が感覚的に分かったような気がします。聖霊は多様に働かれます。イングリッシュ・ガーデンの持つ多様性と、外に向かう勢いは、私にとっては、聖霊のシンボルです。

 日本の教会は外国出身の信者と一緒にやって行くことになるでしょう。教会だけではなく、日本全体がそうなるでしょう。困っている外国人のお世話をするのではない。一緒に生きて行くのです。そこでネックになりそうなのは、日本人の「きちんとやらなければならない」という拘りかも知れません。実を言うと、角刈りや坊主刈りに刈り上げた植栽にその拘りを感じます。

 これについては、だいぶ前の天声人語に面白い話が載っていました。朝の公園で、ラジカセで音楽をかけて、体操をしている青年がいました。だんだん体操に人が集まってくるようになったのですが、ある高齢の男性がこういうことを言い出した。「一人にラジカセの準備をさせるのはよくない。当番を決めて、交代にやろう。」この提案は 受け入れられて、 交代制が始まりました。ある意味の正論には違いないので、誰も反対出来なかったのでしょう。すると、 それから間もなく、 集まる人がしだいに減りはじめました。そして、やがて 朝の体操は消滅したそうです。実に味わい深い エピソードで、 新撰・福音書に載せたいぐらいです。 グループが衰えたのは 、 自由な雰囲気が消えて 皆が窮屈に感じるようになったからでしょう。 制度にすると、「 私も一緒にやりますよ」という個人の 自発性の発揮の余地がなくなってしまいます。 きっちり 物事をやるのが 必ず良いわけではないという教訓です。聖霊の自由な働きを妨げることもあるからです。

 創世記には、「地には草木を生えさせよ。種をつける 草と、種のある実を結ぶ果樹を、それぞれの種類に従って地上に生えさせよ」とあります。今日の第二朗読には、「 一人一人に霊の働きが現れるのは、 全体の益となるためです」 とあります。イングリッシュ・ガーデンに親しむことは、聖霊の働きをビジュアルに理解する助けになるかも知れません。イギリスでは、イングリッシュ・ガーデンは国民的趣味だそうです。