見出し画像

四旬節第2主日(A)年 説教

  本日の聖書  マタイ17章1~9節

◆ 説教の本文

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」

 平凡な私の中から、ある時に突然、「立派な私」が輝き出るという出来事はなかったでしょうか。その「立派な私」はすぐに消えたけれども、その記憶は長く残り、平凡な人生を向上を目指して歩み続ける力になったということが。 

 修道会の神学生は、最初の1,2年は修道院と神学部の生活だけですが、3年目くらいから小教区に司牧実習に出ます。これは私にとってはつらかった。
土曜日の午後に修道院を出発して、日曜日の午後に帰ってくるのですが、出かける時は屠り場に引かれる子牛のようでした。いわゆる、ドナドナドナです( わかるかな)。
 神学生は、小教区ではだいたい教会学校を任されます。しかし、私は子供と一緒になって遊ぶタイプの青年ではありません。また、30になって洗礼を受けたので、子どもにとっての信仰というものがよくわからないのです。いつも自信がなくて、ヘドモドしていました。当時はまだ教会学校に関わる大人も結構いたのですが、彼らからの評判も芳しくなかった。使えない神学生だと思われているようで、針の莚でした (使える神学生はたしかにいます)。
 三年目の夏に神津島に教会キャンプに行きました。ここでも、子供たちも、大人たちにも溶け込めずに過ごしました。帰ってから、当時の主任司祭に呼び出されました、そして、夏のキャンプの間の私の振る舞いについて叱責を受けました。普段から苦々しく思っていたのでしょう。主日のミサのあとも、人々の中に入って行こうとしないことについても叱責されました。2時間くらい叱責は続きました。
 ところが、自分にとっても意外なことに、その2時間の間、私は主任司祭の厳しい言葉に落ち着いて耳を傾けることができたのです。言い換えると、耳を傾けることができる自分に自分で驚いたのです。私は叱責にすべてもっともだと思ったわけではありません。ある部分は誤解だと思いました。私のパーソナリティを理解していないと思いました 。しかし、主任司祭の立場からそう見えることはもっともだと認めることができました。彼の言葉から、 私が学ぶこともあるということは分かっていたような気がします。
その叱責タイムの後、また私は週末ごとに小教区に通う生活に戻りましたが、私の行動パターンは外面的には大きくは変わりませんでした。
しかし、変わった部分もあり、そのことは 主任司祭も認めていました。

 私はいわゆる可愛げのある人間ではありません。子供のからから頭ごなしに叱責された経験はほとんどありません。その私が 2時間もの叱責に落ち着いて、卑屈にならず、反抗的にもならず、耳を傾けることができたことは、自分自身にとって驚きでした。自分の中には、こんな落ち着いた自分が住んでいたのか!
 今日の福音を読んで、30年も前のこの出来事を思い出しました。私の中に密かに住んでいたイエスが輝き出たのだと思います。

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」

「わたしの愛する子、わたしの心にかなう者」が既に私の中にいた。
その後の私の回心の道のりは一進一退を続けました。そして、この時ほど立派に振る舞えたことはないような気がします。
しかし、私のなりたい自分が既に私の中にいる。その微かな記憶が私の回心の歩みを励ましてくれたと思います。

 ご変容の出来事は、マタイ福音書では、イエスの受難と死の予告の後に置かれています。弟子たちも受難と死を通して、復活の栄光に達すると教えられています。しかし、その栄光の姿は、単なる目標としてではなく、すでに自分の中にあるのです。

☆ 説教の周辺

 四旬節第2主日は毎年、ご変容の箇所が読まれます。8月6日のご変容の祝日と福音朗読の箇所は全く同じです。
ですから、この二つの日はどこが違うか、つまり、どんな違う説教するかが 問題になります。私は、ご変容の祝日には、イエスが 弟子たちに栄光の姿を見せて励ますことだけを強調します。
四旬節第2主日には、イエスが内側から輝き出ることを強調します。