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四旬節第2主日(B年)の説教

マルコ 9章2~10節

◆説教の本文

〇 四旬節の第2主日には、毎年、ご変容の場面が読まれます。
今年はB年ですから、マルコ福音書です。一方、典礼暦には「ご変容の祝日」(8月6日)が別にあります。福音朗読は全く同じです。
ということは、それぞれの重点はどこにあるかを考えようということになります。ご変容の祝日は、神の国の栄光をあらかじめ仰ぎ見るというところに重点があります。合わせて読まれる第一朗読は ダニエル書7章の終末的な「人の子」の到来です。

〇 それに対して、四旬節第2主日 は「御受難の予告」に重点があります。「これは私の愛する子。これに聞け」と天からの声(御父の声)があります。 ちなみに、第一朗読は創世記22章のアブラハムが息子イサクを捧げるという 箇所です。

「これに聞け」と言われると、私たちはだいたい山上の説教にあるような、イエスの生き方についての勧めを連想します。しかし、ここでは御受難についてのイエスの言葉をよく聞いて、心に刻めということでしょう。
今日の朗読箇所の直前は、マルコ福音書の有名なイエスの受難と死の予告です。

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、3日の後に復活することになっている。」(マルコ8章31節)

〇 キリスト者の旅路は「あなたは、私の受難に与っていかなければならない」というイエスの挑戦を少しずつ納得することだと言えます。洗礼のためにちゃんと勉強した人ならば 、キリスト者の生き方には苦難が必ずあるということは、洗礼を受ける時にすでに納得しているはずのことです。
しかし、 本当のところは軽く理解しているのではないかと思います。「まあ、そうは言っても、 それほど大したことにはならないだろう。」

最初は、ハードワークすることをキリストの受難に与ると考えていたような気がします。よく考えると、そんなはずはないのですが、しかし、ハードワークすることで 「キリスト者は苦難を受けるものだ」というキリスト教的考えと折り合いをつけています。
次に、ハードワークをして手柄を立てたつもりでも、人には全く評価されないという事態に出会います。この事態も、キリストに従ううちに、次第に受け入れるようになる。

しかし、ハードワークして、なおかつ、人に批判され嘲笑されるという事態はどうでしょうか。これは教会役員を経験した人からよく聞く嘆きです 。
「あなたしかいない。 是非、引き受けてほしい。私たちが周りで支えるから」という言葉に説得されて役員を引き受けた。しかし、それは空約束で、何かを頼むと「いや私には親の介護があるから」とか言われて断られる。では一人で頑張るしかないと思って必死でやっていると、「あの人は自分で仕事を抱え込んでしまっている。人と仕事を分担しようとしない」と批判されることになった。それで、任期が終わった後、教会から遠ざかった人もいます。

しかし、キリストの受難には疑いもなくそのような事態が含まれていたのです。「私は排斥されることになる」。
嘲りは受難の予告には直接現れませんが、いわゆる嘆きの詩篇ではありふれた主題です。そして、預言者イザヤの「苦しみの僕」の歌にも現れています。

「 打とうとする者には背中を差し出し、髭を抜こうとする者には頬を差し出した。辱めと唾から私は顔を隠さなかった。」( イザヤ50章 6節)

〇 福音書には、そして旧約聖書にも、キリスト者は苦難を覚悟しなければならないというメッセージがあれほど明白にあるのに、どうして私たちはいざ苦難が訪れると苦情を言い、私がこんな目に遭うのは理不尽だと嘆くのでしょうか。
福音書には次のような言葉もあります。「 弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。~ 家の主人がベルゼブルと呼ばれるなら、 その家族のものはもっとひどく言われるだろう。」 (マタイ10章24~25節)

結局、私たちは事前に覚悟を決めるということには限界があるのでしょう。 私たちは、自分自身の人生で体験を積みながら(身体で学ぶ!) 、「事後的に」一歩一歩この真理を納得していくのだと思います。

受難の体験は当然ながら辛いものですが、自分の人生を豊かにしてくれたのは、成功体験ではなく、訪れた苦難をイエスと共に引き受けようとした時間だったということを、少しずつ納得します。そして、受難の体験の中で、自分が本当に自由になっていくことを納得します。

その納得に支えられて、次に訪れる苦難の時をより寛大に耐えることができると思います。

〇 「排斥され殺されることになっている」の「ことになっている」と訳されているのは、dei という助動詞です。英語なら must です。これを「ことになっている」と訳するのは少し弱いような気がします。「そうでなければならない」です。
今年の四旬節に、また一歩、「ああ、やはり、そうでなければならなかったのだ」と納得することができますように。
                            (了)