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王であるキリスト(C)年 説教

  タイトル:『王たるキリスト』

ルカ23章35~42節

◆ 説教の本文

キリストは今、あなたの王となっておられるか?

 「王たるキリスト」の祭日というと、 A年に読まれるマタイ福音書23章の印象が強いようです。
最後の審判の日に、すべての人間が自分の人生で貧しい人々にどう対応してきたかで分けられる。貧しい人々を無視してきた者は厳しい裁きを受けるとされています。この印象が強烈なので、この祝日は「世の終わり」において、キリストが王として君臨されるときをあらかじめ祝う日だと思われがちです。
 しかし、今年、C年に読まれるルカの福音は世の終わりの日に関するものではありません。この祭日は、キリスト者の今日の生き方に関するものでもあります。「キリストは 今、すでにあなたの王である。」
こうも言えます。「キリストは今、あなたの王となっておられるか。」
この問いを自分に問いかける日だ。
王という言葉は現代ではどうしても権力的なニュアンスが強いので、指導者と言い変えた方が適切かもしれません。

 イエスキリストは、あなたの生活の全面において、あなたの指導者でしょうか。あなたの生活が一つの家だとして、全ての部屋にキリストは出入り自由でしょうか。客間、居間、寝室、物置、トイレに至るまでイエス・キリストに入ってもらっているでしょうか。
 イエスが出入り自由であるとは、すべての事柄において、イエスの教えに従っているという意味ではありません。ただ、生活の全ての局面をイエスに開いているかです。ある部分は、イエスを立ち入り禁止にしてはいませんか。
 企業で働いている男性の場合、仕事の局面にはイエスの立ち入りを禁じているのではありませんか。「イエスの言うとおりにしていたら、仕事はやっていけないよ」。 この部屋は今は散らかっているから、退職してからイエスに入っていただこう。 そう考えてはいないでしょうか。教会に男性は少なくて、女性が多数を占めるのは昔からのことです。それは女性の方が、イエスを立ち入らせる部屋が多いからではないかと思います。
 男性の生活では仕事の世界が大きな部分を占めていますが、その大きな部屋にイエスを立ち入り禁止にしてしまうと、信仰生活がつまらないものになってしまいます。自分もつまらないし、イエス様も家の中を自由に歩きまわれないので窮屈です。当たり障りのない無難な話しかできない友人のようです。
 女性でも、例えば、ある人との難しい関係をイエスの立ち入り禁止にしてしまえば、やはり同じことになります。そこにもイエスに入っていただいて、そこで起こっている事柄について、自由にイエスと話し合うことこそ、キリスト者の生活の醍醐味です。
    「イエスはこういう場合にはこうせよと命じられる」と決め込んでいるから、イエスをその部屋に招き入れたくないのです。でも、キリスト者の生き方は、まずイエスと自分の生活について自由に話し合うものです。どうするべきかを話し合うのはそれからです。

 夏目漱石の『草枕』で大徹という禅僧がこう言っています。「人間は日本橋の真ん中に臓腑をさらけ出して、恥ずかしくない様にしなければ修行を積んだとは云われん」
恥ずかしくないのは、綺麗だからではありません。綺麗なものも、醜いものも自分なのですから、見られても平気ななのです。

 とは言え、人間同士の付き合いで、どこまで話すかは慎重であるべきでしょう。でもイエス様には 何を見られても平気なのです 。臓腑の奥まで見られても 平気なのです。
それが、キリストを我が家の王とする生き方です。

☆説教者の舞台裏

 ミサの説教は、その日の福音朗読を解き明かすという気持ちで行うのが王道です。特に、年間の説教ではそれが重視されます。
 しかし、今日の説教は福音朗読とはまったく関係づけていません。私は、「王たるキリスト」のように名前のある祝祭日には、選ばれている福音箇所にあまりこだわらなくてよいと考えています。むしろ、「王たるキリスト」というテーマを十分に展開する方が、分かりやすい説教になると思いました。

 今日の福音の「ユダヤ人の王と書かれていた」、あるいは「 あなたは今日私と一緒に楽園にいる」という言葉は、「王たるキリスト」と関連づけることができそうです。実際、それで良い説教のできる神父もいるでしょう。しかし、私の手際ではロジックがごちゃごちゃして、説明的な説教になりそうなので避けました。