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主の降誕後第1主日 神の母・聖マリアの祭日 説教【改訂版】

◆ 説教の本文

 2023年、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
 さて、今日は元日ですが、典礼暦では「神の母・聖マリア」の祭日となっています。1931年に、時の教皇ピオ12世がそう定めたのです。1968年には「世界平和の日」とも定められました。
 この祭日の日取りの決め方は典礼暦的ではなく、一般暦的です。典礼暦とは「救いの出来事」を順に一年の中に展開するのが本来だからです。この種の日は教会暦と呼んだ方がいいかも知れません。

 一方、教会では降誕祭からの八日間(Octave)は、受肉の神秘をより深く理解する期間として大事にされています。その八日目がたまたま、一月一日に当たるのです。これはまさに典礼暦です。
ですから、元日は典礼暦と一般暦との関係を考えさせられる日です。

 私の実家はキリスト教とは無縁でしたから、この日は当然、元日として祝っていました 。小学生の頃のお正月は今でも懐かしい思い出です。8時に家族全員がきちんとした服装で朝食に勢揃いしました。 父や母がいつもとは違う改まった口調で「 今年もよろしくお願いします 」と笑顔で挨拶をします。おせち料理やお雑煮が整えられていて、箸袋にはそれぞれの名前が書いてありました。お屠蘇を飲んで、それからお年玉をもらいます。
 その頃の小学生にとっては、お年玉は一年に一度の巨大な収入でした。今年は何を買おうかと心を踊らせたものです。元日と二日はどこでも店は休みだったので、楽しい買い物は三日まで待たなければなりませんでしたが、それも祝祭らしさを高めたと思います。

 つまり、私の子どもの頃の元日はまさに祝祭でした。家族という共同体がまだ生きていた時代だったせいもあるでしょう。高度成長で右肩上がりの楽観的な雰囲気だったせいもあるでしょう。しかし、私自身が子どもだった。人生は鉄道線路のように私の前に無限に延びているかのように思われました。失敗があったとしても、取り返すチャンスはいくらでもあるように思われたのです。

 しかし、お正月の祝祭的な輝きは次第に薄れて行きました。この説教をお読みの方は高齢者の方が多いと思います。若い時はまだ体力があり先が長いし、心にも弾力性、復元力(resilience)があった。だから、前の年が冴えなくても、今年こそは頑張るぞと意気込み、今年は良い年になりそうだと根拠なく期待することができたのです。
しかし 、年を取るにつれて、その弾力性、 復元力がもうない。世間で「おめでとう」と言うから 、私もそれに合わせて、「おめでとう」と言いますが、暦が 一巡りして回りして、カレンダーを掛け換えただけで今年は良いことが あるだろうとは思えなくなりました。
「門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」という狂歌がありますが、自分の人生が残り少なくなりつつあるという心細い感じの方が強くなってきます。

 カトリック信者は、高齢者になるにつれて、一般暦を離れて、典礼暦、教会暦を生きるようにすべきではないかと思います。人間が持っていた復元力は衰えていきますが、回心することはできます。悪事を反省することは、回心のほんの一部にすぎません。回心とは、神に近づいていくことです。そして、旅の終わりは死ではなく、神の国です。主キリストの再臨です。
私たちは降誕節には、私たち人間を導いてくださる大人のイエスではなく、むしろ、幼子イエスに心を向けます。この子供は私たちが養い育てなければならない弱い 存在です。待降節の叙唱には、「主キリストをすべての預言者は前もって語り、おとめマリアは慈しみを込めて養い育て」とあります。

 人を憎む気持ちを野放しにすることは、私たちの中におられる幼子イエスを餓えさせることです。人を軽蔑することは、私たちの中におられる幼子イエスを冷たい風に晒すことです。 この小さい子供を飢えさせてはなりません。 冷たい風に晒して、凍えさせてはなりません。

◆ 説教者の舞台裏

(1) 私が小教区で説教をするなら、徹底的に元日のミサとして説教するだろうと思います。集まってくる会衆のほとんどは年頭の祝福を期待しています。 第1朗読の「アーロンの祝福」は神社のお祓いみたいに荘厳で、それに適しています 。

「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。」

(2) 初詣感覚で、ご近所の方が参加されることもあるでしょう。いやむしろ、 招くようにしたいと思います 。「 教会でも初詣ができますよ。」

(3) 元日とマリア様の話を結びつけることは、やってできないことではありません。しかし、手際が良くないとごちゃごちゃした話になるでしょう。