見出し画像

年間第25主日(A)年の説教

マタイ20章1~16節

◆説教の本文

「天の国は次のように喩えられる。」

〇 マタイ福音書にはこのフレーズで始まる喩え話がいくつかあります(その多くは13章に集まっています)。
「次のように喩えられる」と言われると、天の国(神の国)の内情が喩えられているように思いますが、そうではありません。天の国(神の国)に入っていく人の足取り、入り損なう人の姿が、いろいろ描かれているのです。
ここでは、神の国に入り損なう人の拘る価値観が語られています。
その価値観とは「公平であること」です。公平であることは確かに美徳の一つです。しかし、この美徳に拘りすぎると、神の国にふさわしくなくなるのです。

「まる一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと、この連中と同じ扱いにするとは。」

〇 60年代70年代には、日本でも、自由な人間のつながりを求めて各地に共同体運動が起こりました。戦前では、武者小路実篤の「新しき村」の運動があります。
しかし、ほとんどは挫折しました。主な理由は、メンバーの間で「労働が不公平だ」という不満が起こることです。

この種の共同体運動は、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という理想を持っているものです。労働を厳しく客観的に査定しようとすると 、 人間同士のつながりは硬直して、不自由になるからです。
しかし、それを承知して参加しても、実際に共同生活を始めてみると、「 あいつはろくに働かないのに、ちゃっかり受け取るものだけは受け取っている」という不満が出てくることは避けられないものらしいです。
「公平」という美徳に対する拘りは、私たちが自分で思っているよりもずっと強いのです。私たちの感受性をより傷つけるのは、「報酬の不公平」よりも、「負担の不公平」の方でしょう。

現代の企業でも、社員の給料は公開されません。個人的に教え合うことは禁止できませんが、そんなことはしない方がよいと言われています。
同僚の給料を知ってしまうと、必ず、「あいつはあの程度の働きしかしていないのに 、俺と同じだけ(以上)もらっているのか」という不満が起こるからです。労働意欲の減退にもつながります。「 あの人はあんなに働いているのに、俺と同じ(以下)だけしかもらっていないのか。申し訳ない」と思う人はまずいないそうです。

それで思い出すんですが、私は上智大学の神学部に編入学した時、ニ度目の大学生活でしたから、全科目でA評価を集めようと思い立ったことがあります。順調に集まっていたのですが、たまたま、あるクラス・メイトのレポートの評価を見てしまいました。
私から見れば、それは高校生の感想文のような ものでしたが(傲慢ですね)、堂々のA評価でした。この程度でもA 評価なのかと思いました。自分のA評価も大して評価されたわけではないのかもしれないとがっかりして、すっかりやる気を失ったということがあります。
勉強は自分(と社会)のためにやるものですから、他の人が甘いA評価を貰っているからと言って、自分がやる気を失うのはおかしいのですが、人間にはそういう非合理なところがあると思います。

「5時頃にも行ってみると、他の人々が立っていたので、なぜ何もしないで1日中ここに立っているのかと尋ねると、彼らは『誰も雇ってくれないのです』と言った。」

〇 不公平だという声が起こる理由は、確かにフリーライダー(共同体にただ乗りする人) がいるからです。しかし、私たちはフリーライダーの存在に過敏になりがちです。
人は、私たちに見えているよりも働いているものです。あるいは、確かにパフォーマンスは低いかもしれないけど、苦労はしているものです。人間は自分の苦労は身にしみてわかるものだが、他人の苦労は分からないものです。
この喩え話では、朝早くから仕事を確保できた人には、 夕方の5時頃まで仕事が見つからなかった人の不安は分からないのです。

「主人は、1日につき1デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。」

〇 この喩え話では、朝から働いていた人は、使われる立場なのに、堂々と雇い主に抗議しています。公平に拘る人は、正義は自分の側にあると確信しているものなのです。
その「正義」に疑問を呈することが、この喩え話の役割です。喩え話の役割の一つは、私たちが普段、当然と思いこんでいることに、「本当にそうなのか」と問いかけることなのです。

1 デナリオンは、労働者1日の生活費用です。この状況で大事なことは、それぞれが生活に必要なものを受け取っているかどうかです。確かに、受け取っているのです。なのに、他の人と比較する必要があるのか。
この喩え話は、それを問いかけているのです。

聖書には、公平に拘ることが人間に難しい問題を生み出すことが語られている箇所がいくつかあります。
創世記のカインとアベルの物語 (4章1-8節)がそうです。カインは立派な仕事を持ち、そして、労働に見合う成果を得ていました。それで満足してもいいはずです。
なのに、自分が神様から労いの一言をいただいていないことに拘ったあげく、弟を殺してしまいます。「えっ、おかしいんじゃないの」と思うところまではいいのです。それに拘り過ぎることが、罪を引き起こしたのです。

〇 為政者やグループのリーダーの立場にある人は、メンバー間の公平、特に負担の公平を心掛けるべきでしょう。それを甘く見ると、必ず失敗します。
中国の古典に、「乏しきを憂えず、等しからざるを憂える」とあるのは、為政者の心がけのことを言っているのです。

しかし、 自分のこととしては、「公平に扱われているか」にあまり拘わらないようにしたらよいと思います。大事なことは、「自分だけ必要なものを受け取っているかどうか」です。この二つは決して同じではないのです。 周囲の人に不満を言うならば、「自分は必要なものを受け取れていない」ということであるべきです。必要なものとは、お金や資材など物質的なものと、精神的支えを含みます。

ここを混同することから、人間が共に生きることの難しさが多く生まれていると思います。自分は不公平を弾劾しているつもりで、実は、「 アイツばっかり甘い汁を吸いやがって」と妬んでいるだけかもしれないのです。
神は言われます。

「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、私の気前の良さをねたむのか。」

「公平」という美徳に過度に拘らないことによって、私たちは「神の国」に一歩近づいているでしょう。