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主の変容の祝日(A)年の説教

マタイ17章1~9節

  • 今日は、通常なら年間第18 主日です。しかし今年は「主の変容」の祝日と重なるので、そちらが優先します。

◆ 説教の本文

〇 「主のご変容」の出来事は、ガリラヤから十字架の立つエルサレムへの、イエスの最後の旅路の中に置かれています。
それで毎年、四旬節第二主日には、この出来事が朗読されることになっています。主の受難と死という出来事に失望してしまわないため、あらかじめ主の栄光を垣間見る必要があるからです。

こういう意味合いは、今日の祝日にもあります。叙唱に「キリストは、人々が十字架につまずくことのないように、選ばれた弟子たちの間で栄光を現し、そのからだはまばゆい輝きに満たされました」とあるとおりです。

しかし、せっかく四旬節第二主日とは別に「主の変容」の祝日が定められているのですから、四旬節とはまた異なった意味を考えてもいいのではないでしょうか。
それは、旅路の中で「観想」(contemplation)することの意義です。

キリスト教信仰は、私たちの目指す国は、地上の旅路の最後にあると信じています。野を越え、山を越えて行く困難な旅路の果てに「神の国」があると信じています。

つまり、私たちの目線は基本的には低くあるべきなのです。遠くの地平線を見ているが、目線は低くして、前へ前へと歩き続けるのが、キリスト者の生き方です。

〇 しかし、この旅路は長く、時に耐えがたいものになります。
預言者エリアのように、「主よ、もう十分です。私の命を取ってください。私は先祖にまさる者ではありません」(列王記・上、19章4節) と弱音を吐きたくなります。その長い苦しい旅路を歩き続けるためには、時に目線を高く上げることも必要です。

「 イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」

私の修道院は「宝塚黙想の家」の敷地の中にあります。夏の朝、聖堂にいると、セミの鳴くジージー 、シャーシャーという声が降り注いで来ます。その中で黙想していると、時々、時間が止まったような気がします。

芭蕉には「閑かさや岩にしみる蝉の声」という有名な句があります。降り注ぐ蝉時雨の中に立ちつくしていると、過去もなく、未来もなく、ただ 「永遠の現在」だけがある。そういう感覚を詠んだ句だと思います。

過去の反省もなく、未来の計画もない。ただ今、イエスを見つめる。イエスに見つめられる。そして、魂が癒される。反省や計画を良しとする私たちの通常のメンタリティーからは、無為の時間に思えます。
しかし、厳しい旅路から一時離れて、そういう空間に入ることも必要です。 もちろん、こればかりを求めていたら、キリスト教になりませんが、長い苦しい旅路を歩き続けるためには時に必要です。

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように、服は光のように白くなった。」

〇 こういう魂の状態は「観想」(contemplation)と呼ばれます。観想という言葉は、キリスト者の間で割合に知られていますが、その意味は曖昧です。
なんだか高級な祈りの形のようでもあり、少数の素質のある人が達する恍惚状態のようでもあります。ローマにベルリーニの「聖テレジアの恍惚」という有名な彫刻がありますが、そのイメージです。

しかし、観想は、キリスト者なら誰でも入ることができる状態です。ただし、短い時間であればです。
ベネディクト系の修道院の伝統では、観想は「聖書を読む祈り」(レクチオ・ディヴィナ)の中で行われます。レクチオ・ディヴィナとは、一口で言うと、聖書(または、それに準ずる霊的書物)を非常にゆっくり読み進めることです。「聖書をゆっくり読むことがそのまま祈りである 」、これがレクチオ・ディヴィナです。

レクチオ・ディヴィナを続けていると、ふと目が書物のページから離れて、精神が何処か別の場所にワープする時があります。観想に慣れていないと、自分は読書に疲れて、気が散っているのだと思います。実際、そういう場合もあります。

しかし、それが観想(contemplation) の時かも知れません。ただ気が散ったり、退屈しているのではなく、穏やかな喜びが感じられるなら、それは観想です。その時間をゆっくり味わいましょう。その中で、私たちの旅路の疲れと、回心の苦闘で受けた傷が癒されて行くのです。

〇 これが観想です。ただし、長くは続きません。ほとんどが数十秒です。長引かせようと努力する必要はありません。
ペトロが「ここに仮小屋を三つ建てましょう」と言ってるのは、この素晴らしい時間をもっと長引かせようと言ってるのですが、その願いはあっさりスルーされました。努力して長引かせるのは、観想ではありません。また、落ち着いてレクチオ・ディヴィナに戻ればいいのです。この数十秒の観想を何度か繰り返すことはできます。

〇 レクチオ・ディヴィナの中の観想は、修道者でなければピンと来ないかもしれません。信徒の方なら、美しい森を散策している間に、短い観想の時間が訪れるかもしれません。

〇「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け。」

最初に言いましたように、私たちの本領は、イエスの言葉に耳を傾けつつ、回心の旅路を一歩ずつ歩くことです。しかし、そのためには、短くても観想の時を持つことは有益です。

☆ 説教者の周辺

レクチオ・ディヴィナと観想の関係については、 『聖書の読み方―レクチオ・ディヴィナ入門 』に書きました。