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主の公現 説教

マタイ2章1~12節

◆説教の本文

 主の公現の祭日には、毎年、つまりABC年を通して、マタイ福音書のこの箇所が朗読されます。
 三人の賢者が東方から星に導かれて、幼子イエスのもとにやってきました。教会の伝統はこの人々を尊敬して、王様であったと考えました。 名前までつけられました。メルキオール、バルタザール、ガスパル。
クリスマスの馬小屋に飾られる三人の像は王の姿をしています。
 しかし、福音書は王とは言っていません。占星術の学者と言っています。学者とは言っても、大学や王宮の中で尊敬される存在ではなく、在野の探究者、知恵を求める人かもしれません。町の占い師のような怪しげな存在と見られていたかもしれないのです。
 山あり砂漠ありの旅をして疲れ、衣服もくたびれたこの三人が贈り物を捧げたとき、救い主は世界に公現したと、マタイ福音書は言っているのです。
 公現、「公けに現れる」は良い日本語だと思います。epiphanyは普通、顕現と訳されます。顕現というと、「儂が天神、菅原道真じゃあ」ドーンと派手に出現するイメージがあります。しかし、イエスの顕現は公のもので、スケールは小さくとも、確固として現れ、地上の現実に根を下ろすのです。

 少数ではあっても、神を神として崇め、自分の精一杯の贈り物を捧げる人々がいる時、世界に神はしっかりと現れているのです。そして、異邦人を照らすのです。
 世界というと話が大きくなってしまいますが、地方の小さな都市を考えてみましょう。私は大学を出てすぐ 、栃木県栃木市 (県庁所在地ではありません) で働いていました。そこには綺麗な庭のある小さな教会がありました。 栃木カトリック教会です。
私はまだキリスト者ではありませんでしたが、その存在は知っていました。
中に入ったことはなかったけれど、その前を通って、そこで礼拝が行われていることに気がついていました。栃木市に住んでいたのは2年ほどですが、この教会が存在し、活動していたおかげで、キリスト教は私にとって現実的なものであり続けました。 栃木カトリック教会がなければ、私のキリスト教は、孤独に内村鑑三やドストエフスキーを読んで、心の中でアレコレ賢いことを考えるだけで終わったでしょう。 そして、いつのまにか キリスト教は私の関心から去っていったかもしれないと思います。

 キリスト教は、今日でも 世界最大の宗教です。 しかし、 日本では超マイノリティです。その日本でキリスト者が誇りを持って生きるためには何が必要でしょうか。日本の教会は平和や環境、あるいは経済問題について様々な発言をします。だいたい良いことを言っています。しかし、日本の社会に影響を与えることはほとんどありません。
言論は価値あるものですが、人間に存在意義を与えるものではありません。
私たちがキリスト者の誇りを持って毎日を生きることができるのは、心からの礼拝を捧げることによって、神(父と子と聖霊)の顕現の場となることによってではないでしょうか。少数であっても、まことの礼拝を捧げる人々がいるところに神はおられるのです。 ヨハネ福音書で、イエスはこう言っておられます。

「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父に礼拝をささげる時が来る。 」御子を通して、父を礼拝するのです。
 「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」( ヨハネ4章 21、23節)

☆ 典礼暦の豆知識

(1) 今年の典礼暦では 「主の洗礼」が月曜日になっています。 たいていは、元日の次の主日が「主の公現」、その次の主日が「主の洗礼」です。 今年は元日が主日に当たったので、 この通りにすると、「 主の洗礼」が年が明けて2週間後になってしまいます。それでは年間が始まるのが遅すぎるので、「 主の洗礼」を早めているのです。

(2) 「主の洗礼」は降誕節の中です。しかし、年間最初の主日は年間第二主日となっています。 年間第一主日がありません 。 これは毎年のことです。 何故だか分かりますか。 第一主日はないけれども、年間第一週はあるのです。年間第一月曜日、年間第一火曜日という風に。

(3) こういう細かい疑問を 「はてな?」で済ませていると、典礼暦が疎遠なものになります。なぜそうなっているのかを知っていると、典礼暦が身近なものになります。時々、こういう豆知識を提供していきます。