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聖金曜日の説教(の代わり)です。

聖金曜日(B年)の説教前の考察

イザヤ52章13節~53章12節
ヨハネ 18章1節~19章42節

◆ 説教の本文

〇 この考察は、聖金曜日の福音書朗読の前に読まれることを前提にしています。今年はもう間に合わないわけですが、来年の聖金曜日の参考にしてください。

〇 聖金曜日のミサ典礼書のルブリカ(注記)には、福音朗読の後、「必要があれば短い説教をすることができる」とあります。説教はいつでも短い方が良いと思う人もあるでしょうが、この場合は、短い方がいいではなくて、短くなくてはならないのだと思います。

出来事には意味があります。意味を語らずに出来事を語るのは不可能だとも言えます。しかし、意味の語りが肥大化して、出来事そのものを覆い隠してしまう場合があります。
文学(小説)好きの人なら、評論に読みふけって、作品そのものを読まなくなるということがあるのを知っているでしょう。

例えば、夏目漱石の『こころ』には膨大な数の評論や研究が書かれています。どれをとっても、興味深い論点が書かれていています。それに比べると、小説『こころ』そのものは色褪せて感じられます。実際、漱石を敬愛する私にとっても、『こころ』という小説は登場人物が不愉快で、好んで読みたいものではありませんでした。それで、ストーリーはだいたい覚えているので、評論や研究を次から次へと読みふけっていたのですが、これが本末転倒であることは明らかです。やはり、作品自体を何度も熟読しなければならないのです。何度も通読、あるいは 部分読みをしているうちに、次第に作品そのものを玩味できるようになりました。

〇 聖金曜日は、「ヨハネによるイエス・キリストの受難」そのものに耳を傾けるべき時だと思います。私たちに救いをもたらしたのは、十字架の「出来事そのもの」であって、出来事の意味の解説ではないからです。

出来事そのものに耳を傾けるためには、饒舌な説教は妨げになるのです。
説教者はパレスチナや ウクライナ などの現代的世界にある苦しみと結びつけて、イエスの十字架の意味を語りたくなるものです。しかし、それを簡潔に語ることは難しいので、説教は長くなりがちです。そうなると、聴衆の印象に残るのは、パレスチナや ウクライナの話であって、ヨハネによるイエス・キリストの受難の印象は薄れていきます。良くできた説教であるほど、聖書朗読そのものの印象は薄れていくとも言えます。

〇 ある意味で、聖金曜日の第1朗読 、イザヤの「苦しみの僕の受難」が福音朗読の最も優れた解説となっています。

「彼(十字架のイエス)を見て、王たちも口を閉ざす。誰も物語らなかったことを見、一度も聞かされなかったことを悟ったからだ 。」

主の受難という出来事を聴いた者は、饒舌に語ることはできません。

〇 実践的には、「ヨハネによる主イエス・キリストの受難」の朗読の後、長い沈黙をとる。そして、短い説教というより、励ましの言葉を語る。その励ましの言葉が、盛式共同祈願につながると良いと思います。
                             (了)