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年間第33主日(C)年 説教

ルカ21章 5~19節

◆ 説教の本文

タイトル『希望の説明と宗教論争』

 私たちは迫害というほどのものには逢いませんが、信仰の弁明を迫られることは時々あります。
居酒屋で隣合わせたオジサンに、信仰を「あんなものは弱いやつのすることや」と馬鹿にされたときとか、何かピシッとしたことを言ってやりたくなります。「金持ち喧嘩せず」とばかりに、ヘラヘラやり過ごすことがいいはずはありません。
また、親戚の集まりで、宗教の話になりかかって、「なあ、英俊さん、キリスト教ってどんなもんやねん」と話を振られたとき、「まあまあ、酒の席で野暮な話はやめまひょ」と逃げを打つのが、キリスト者の道か。そんなはずはありません。

「人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、私の名のために王や総督の前に引っ張っていく。それはあなた方にとって証しする機会となる。」

 迫害の中での華々しい証しの機会も私の身に訪れるかもしれない。覚悟しておくべきでしょう。
しかし、今の私には、居酒屋で隣り合わせたおじさんとか、宗教にちょっと関心のある親戚とか、そういう人が証しする機会を与えてくれるのです。まず、そういう地味な機会に証ししなければ、華々しい迫害と殉教の時を想像して、意気込んでも虚しいでしょう。

「前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、 対抗も反論もできないような言葉と知恵を、私はあなたに授けるからである。」

 証しする時に、今日の福音にあるように、素晴らしい言葉が神から舞い降りて、相手を納得させてくれる(あるいは黙らせてしまう) とかいうことが起こるのでしょうか。日頃、自分が全く考えていないことが、突然素晴らしい言葉となって口から出るというようなことはあり得るものでしょうか。
ないと思います。考えたこともないような言葉と知恵が、私の口から出るなら、それは私の言葉ではありません。私の証しではありません。

 ペトロ書簡の美しい言葉は、信仰の弁明に光を与えてくれます。

「あなたがたの抱いている新希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意を持って、正しい良心で弁明するようにしなさい。」( ペトロの第一の手紙3章15~16節)

 信仰の弁明とは、自分の抱いている希望を説明することです。宗教論争をして論破することではありません 。私が抱いている心からの希望は、「どんな反対者でも、対抗も反論もできない」ものです。
しかし、その希望をどう表現するかは、日頃から考えておかなければなりません。 よく考えていなければ、いざ話す必要が起こった時に、行き当たりばったりなるから、緊張で声が硬くなります。 態度が必要以上に戦闘的になります。「穏やかに、敬意を持って」話すことが難しくなるのです。それでは証しになりません。

 日頃の準備はどうしても必要です 。しかし、その時その場にふさわしい言葉と口調で語るには、聖霊の導きが必要です。また、どこまで説明するかも、聖霊の導きが必要です。
いつでも、キリストの受難と死と復活まで説明するわけではありません。そこまで触れることはめったにないでしょう。でも、聖霊に促されるなら、そこまで踏み込むかも知れない。あらかじめ、「ここまで」と決めておくことはできないのです。

 これが「前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい」の意味ではないでしょうか。日頃から、よく考えて、信者仲間でも分かち合い、自分が抱いている希望はどういうものかを確認する。あとは、出会いに任せるのです。その場に働いておられる聖霊に従うのです。何を、どこまで語るのか。どういう言葉を使って語るのか。

☆ 説教者の舞台裏

 この説教は、福音書のメッセージを、釘の頭を打つように正確に表現したとは思いません。私には、この福音箇所の統一的なイメージが持てないのです。そこで、私の日頃から気になっていることを扱ってみました。
 それは、「 その時には、聖霊が導いてくださる。今から心配しなくていい」 という考え方です。
私は説教の準備を 出来る限り綿密にしたいほうです。私が額に皺を寄せて説教の原稿を書いているのを見て、先輩の神父が親切に諭してくれました。「来住神父さん、 そんなに頑張って準備しなくてもいいよ。精霊が導いてくださるのだから」。 私は、この種の物言いに強い反発を感じます。「聖霊が導いてくれたと称する、あなたの説教はそんなに立派なのか?」と皮肉を言いたくなります。聖霊様が、怠惰や行き当たりばったりの口実に使われているのではないか。
 かと言って、「聖霊が説教を導いてくださる」 という命題そのものを否定することはできない。その答えをこの説教でしようとしたのです。
 今日の福音と関係なく、勝手なことを言ったわけではありません。福音書の言葉と一応の関係はあります。今日の福音のメッセージの中心ではないかも知れないというだけです。