見出し画像

年間第26主日(A)年の説教

マタイ21章28~32節

◆ 説教の本文

「兄は『嫌です』と答えたが、 後で考え直して出かけた。」

〇 大人同士で議論をしている時、あるいは、親と子供が言い合いをしている時、感情が激して思いがけず、きつい言葉を吐いてしまうことがあります。自分でも言い過ぎたかなと思うのですが修正できず、そのままの威圧的な調子で話し続けることがあります。
そんな時、「あ、 ごめん、ちょっと言い過ぎた」と言えれば、話の流れは変わらないまでも、ヒートアップすることは避けられるのです。

人間は、自分が取った態度を正当だと思いたいものです。不必要に荒々しい言葉や態度を取ってしまった、「これはまずいかも」と思わないでもないのですが、「いやいや、相手の態度が私にそうさせたのだ」ということにしたい。
これはプライドというよりも、過去の自分(の言動)に対する固執と言えるかもしれません。この過去の自分に対する固執のため、いま現在、この場で起こりつつあることに対する感受性を押し殺してしまうのです。今の例で言うと、「あの言い方はまずかった」と今の自分が思っているということです。

〇 第二朗読のフィリピ書簡に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり」とあります。キリストは確かに神です。しかし、ご自分で「自分は神である」ということに固執すれば、自由を失います。自分を無にすることができなくなり、あえて僕の身分になることができなくなるのです。

〇 何かを依頼された時、とっさに時間がないとか、失敗すると困るとか、自分を守ろうとする本能に負けて、「いやできません」ということがあります。これはファースト・リアクション(first reaction)です。本能的な反応です。
しかし、その後ちょっと考えて、「できるかもしれないな」と思い、寛大な気持ちが優勢になることがあります。これはセカンド・ソート(second thought)です。つまり、「後で考え直した」のです。キリスト者の本当の姿は ファースト・リアクションではなく、セカンド・ソートに現れます。

大事なことは、セカンド・ ソートが、ファースト・リアクションに引っ張られないことです。つまり、後で考え直す時に、最初の反応から自由になることです。これは必ずしも、簡単なことではありません。

「過ちては改むるに憚ることなかれ。過ちて改めざる、これを過ちという」と論語にあります。あまりにも当たり前のことを言ってるようですが、孔子は人間がファースト・リアクションに固執するものであることを知っていたのだと思います。

「悪人が自分の行った悪から離れて、正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。」(第一朗読)