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年間第5主日(A)年 説教 【改訂版】

マタイ5章13~16節

◆ 説教の本文

「山の上の町は隠れることができない。」

〇 私の神学部の修士論文は、 この章句をテーマにしています 。
ゲルハルト・ローフィンクの「イエスと共同体」と言う本にヒントを得ました。彼は「地の塩」と「世の光」という言葉を対照的に論じています。
(聖書本文は彼の言うほどには、二つの言葉を対照的には考えていないと思います。)

 「地の塩」とは、キリスト者が個人としての振る舞いを通して、塩が料理に溶け込むように、静かに社会に影響を与えていくことを言います。
 「世の光」とは、キリスト者が、その生き方で、社会に新しい生き方の可能性(alternative lifestyle)を示すことによって、社会を変えていくことを言います。「世の光」には独りでもなれないことはないのですが、共同体として光になれれば、大きな力を発揮するので、町というイメージが出てくるのです。世の人々に見え、世界の人々が仰ぎ見る模範となるという意味で、「山の上の町」です。

 「山の上の町」が「世の光」となるのは、外の世界に対して良いことをするからばかりではありません。慈善事業とか平和活動とか。
むしろ、内部の人間関係の処理の仕方です。物事がうまく回っているときは、どこでもうまく行くのです。グループの質が問われるのは、対立が起こったときです。
例えば、平和活動を進める上で方針の違いがあった時に、どのように話し合ってそれを解決の方向に持っていくか 。私たちは平和活動のために設立されたグループが、いったん内部に対立が起こると、処理の仕方は既存の政治団体と何も変わらない罵り合い、パワーゲームになってしまうことを目撃しています。
 互いに意見を十分に述べ合って、しかもバラバラになってしまわずに、 統合の方向に持っていくことができるグループがあるとすれば、心ある人たちはもっとその団体のやっていることを知りたいと思うでしょう。
教会共同体においてこそ、それが 実現する可能性があるのではないかとローフィンクは言うのです。彼はそれを、alternative community, contrast communityと呼んでいます。これは既にイザヤの預言にあるビジョンです。

「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として、堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。 国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『 主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私たちの道を示される。私たちはその道を歩もう』と。」
(イザヤ 2章2~3節)

 だから、ローフィンクのいう共同体とは、可視性のあるものでなければなりません。カトリック教会のような 巨大組織ではなく、その中の小教区、あるいは、修道院のイメージです。

〇 私は当時、日本の教会は宣教(福音化)に行き詰まっていると感じていたので、この考えは非常に魅力的でした。修士論文を出してすぐに叙階されたので、これをあちこちで話して回りました。宣教に行き詰っているのは 欧米諸国でも同じで、ローフィンクの本は広く読まれ、著者は各国から講演に招かれたようです。

 しかし、司祭になって教会で働き始めると、今の日本のカトリック教会が 「山の上の町」になるのはとても難しいとわかりました。日本の小教区や修道院の内部事情は、日本社会のグループ活動の平均よりは少し上かもしれませんが、とても「世の光」「山の上の町」にはなっていないと思いました。他人事として批判しているのではありません。自分が小教区や修道院の揉め事に関わってみて、小さな揉め事でも解決は難しいものだと痛感したからです。
「事態が紛糾しているのではない。欲望が紛糾しているのだ」という言葉があります。熱心に活動する信者の間で対立がある場合、それぞれの言い分(欲望)には正当性があることがほとんどです。ただ、相手の言い分にも正当性があるということをなかなか認められないのです。司祭は説教壇から兄弟愛や赦しを説くだけでは 調停できません。

〇 カトリック教会が「世の光」「 山の上の町」となるのは相当、先が長そうです。しかし、小教区や修道院単位ではなく、2~3人の規模で、複数のカトリック信者が「世の光」となるということは可能だと思います。マルコ福音書に、イエスが弟子たちを宣教に送り出す時、二人ずつ組にされたとあります(6章 6b~13節)。 道が危ないからではなくて、その二人の関係が、特に対立の処理の仕方が 福音的 あり、宣教的であることを期待されたのではないでしょうか。キリスト者が教会外の人を含む奉仕団体や地域グループに参加した時、その2~3人のキリスト者同士の関係のあり方が他のメンバーたちに対して、世の光となる 可能性を考えてみるといいのではないでしょうか。

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。」

〇 私は日本のカトリック教会が「山の上の町」となることを諦めてはいません。しかし、今のところは、日本のカトリック教会は、個々のカトリック信者が「地の塩」となることを目指した方が良いと思っています。私自身が車椅子に乗る身となった今は特にそう思います。
 私は週に2回、デイサービスに行きます。自分が世話される立場ですが、介護職員と濃くはないが、継続的な人間関係が 発生します。そこでどのように振る舞うか、どのように話すかは「地の塩」としてゆっくり働く可能性があります。今の私は無私の愛で周囲の人に尽くしてはいませんが、真率な話し方を心がけています。これは 日本の社会では、ささやかでも影響を与えると思います。日本では、率直でない形式ばかりの話し方、何でも 笑いを取ろうとする話し方が蔓延しているからです。( ただし、介護の現場での会話はかなり良質です)


☆読み物

(1) 聖書本文の「地の塩」、「世の光」は、修辞法でいう並行法だと思います。並行法とは類似した意味を持っている2つの単語(あるいはフレーズ)を重ねることによって、印象を強めることを言います。詩編によく用いられる修辞法です。
 ローフィンクは、あえて対照的に読んだのです。聖書のこの箇所の解釈としては誤り、「読み込み」でしょう。しかし、聖書全体としてはこういう思想は確かにあります。二つの単語を対照的に論じて、その思想を際だたせるのは意味があります。


(2) ローフィンクの本は日本語訳がありません。原著はドイツ語ですが、英訳があります。Gerhard Lohfink, "Jesus and Community"

(3) キリスト者のグループの面倒くささについては、来住英俊『 目からウロコ キリスト者の人間関係』 (女子パウロ会)を参照 してください。