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年間第26主日(C)年 説教

ルカ16章 19~31節

◆ 説教の本文

「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」

 昭和44年の第一次 オイルショックの時、私の父親が妙に張り切ったことを覚えています。トイレット・ペーパーがその象徴でしたが、日用品や食料品が店から消え始めました。 一時的なことではなく、これから物が不足する時代が続くのではないかと思われたのです。そして、父は「 今こそ、貧しい時代を知っているワシらの出番や」と張り切り出したのでした。父と同じ世代で、同じように張り切った男性は多かったと思います。
 父は戦争中、そして戦後の窮乏生活を知っています。そして、戦後の大量消費時代に不安と後ろめたさを感じていたのでしょう。こんな生活がまともであるはずはない、と。しかし、実際に物が満ち溢れる世の中で、それに対して異議を唱えることはできなかった。物が再び不足する時代になったので、今こそ時代の誤りを正すことはできると思った。それが父のあの時の生き生きとした表情の原因だったでしょう。
 しかし、それは一時のことに過ぎなかった。再び物資は満ち溢れるようになり、それに伴って父の張り切ぶりも萎んでいきました。父は豊かな時代に違和感は持っていましたが、本当に豊かな生活を捨てるだけの覚悟はなかったのでしょう。この昭和44年の体験は私に強い印象を残しました。一時的な強い興奮で、生き方を本当に変えることはできるものではないということです。

 私たちキリスト者も、今の生き方が正しいものではないという不安を持っています。しかし、それを正すためにどこから手をつけていいのかわからない。 ラジカルな行動をとると、周囲の人にどう思われるか。また、自分にそれだけの覚悟があるか、自信もない。
 そこで、私たちは思うのです。きっかけがないだけだ、と。死者が生き返るような、強烈なインパクトを持つ体験があれば、それをきっかけに自分は生き方を変えることができるのではないか。
しかし、それは夢想だと、今日の福音は教えています。

 私たちには、生き方を刷新する方向性はすでに十分に示されています。その方向に向かって、今日一歩を踏み出すことができないのなら、いつか大きなジャンプをすることができるというのは自己欺瞞です。「モーセと預言者に耳を傾けないのなら」というフレーズは、「 福音の言葉に耳を傾けないのなら」 と読みかえるべきでしょう。 いや、「あなたの心の中に静かに語りかけるイエスの声に耳を傾けないのなら」とも読みかえるべきかもしれません。

 私たちは、福音書には既に十分親しんでいます。今日、生き方を刷新すべく、踏み出すのは一歩でいいのです。刷新すべき「領域」はいくつかあります。「財貨を貧しい人々と分かち合うこと」、「 人との和解」などです。
いま最も気になっている領域で、一歩を進めるのです。しっかりとした一歩を進めれば、自分の立ち位置が変わるので、周りの風景が違って見えます。そうすれば、次の一歩が思いつかれるということもあると思います。そして、生き方を刷新する長い旅路を歩み始めるのです。ごミサ、ご聖体を毎週の糧として。

「主の使いがもう一度エリアに触れ、『起きて食べなさい。 この道のりは 耐え難いほど長いのだから』と言った。 エリアは起きて食べ、そして飲んだ。その食べ物で力をつけた彼は、 四十日四十夜歩き続け、神の山ホレブに着いた。」(列王記19章7~8節)


☆ 説教者の舞台裏
 ルカの福音書は「富と貧しさ」の問題を大きく扱っています。 この説教も ルカ福音書に忠実であろうとすれば、「あなたの富を 貧しい人と分かち合いなさい」 という方向に限定するのがよいのかもしれません。しかし、私はそうはしませんでした。キリスト者の生き方全般の問題として扱いました。これは 先週の説教、「不正な管理人」の説教についても 言えることです。
 一つの理由は、私自身が「 貧しい人に富を分け与える」という生き方をして来なかったからです。修道者の道に入る前はそうでしたし、その道に入ってからもそうです(自分の財産を持っていないから)。自分が全くしていないことをもっともらしく説教することは、私にはできないのです。
 しかし、もっと重要な理由は(これと関連していますが) 、その説教を聴いて、 実際に「富を貧しい人に分かち合う 」人が私には想像できないからです。説教者は、今日の自分の説教を聴いて実際に生き方を少し変える人がいるという想像に支えられて、説教をしています。
例えば、身近な人との和解の説教です。実際には、その説教を聴いて、和解の道を一歩進める人は一人もいないかもしれない。それでも、少なくとも、私は想像することはできるのです。説教しようとすることを曲がりなりにも実践しようとした経験が、私にあるからでしょう。
 自分があまり実践していないことでも、聴衆に益になるなら説教してもよいという考えもあるでしょう。それで良い説教になる神父もいると思います 。 しかし、私の場合は良い説教にはならない気がします。声に力がないと、自分で思うから。


列王記の引用は、今日の聖書朗読ではありませんが、うまく着地が決まらないので使ってみました。