復活節第4主日(B年)の説教
◆ 説教の本文
〇 ヨハネの10章には、羊飼いの喩えが集められています。
典礼暦では、これをA年(1~10節)・B 年・C 年 (27~30節)に分けて読むようになっています。今年はB年(11~18節)です。
〇 ヨハネの福音書は、他の3つの福音書(総称して共観福音書) とはかなり違いがあります。
1つは地理的なことです。共観福音書では、イエスは公的活動のほとんどをガリラヤで送られます。生涯の最後の短い時期にエルサレムに入って、そこで十字架にかけられます。
一方、ヨハネ福音書では、イエスはガリラヤとエルサレムを行ったり来たりされます。そして、エルサレムでの活動を述べる記事は、共観福音書よりもずっと多いのです。またイエスが長々と話す場面が多いことも特徴です。
〇「私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。」
ヨハネ福音書の最も大きな特徴は 「キリスト者になる人は最初から決められている」というトーンです。「私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている」という章句にもそれは現れています。イエスは「あなたは私の羊になる」とは言わないのです。
私たちは信仰が神からの恵みであることを、一応は知っています。
しかし、やはり、広い世界の中で自分が自由に探求してきた。そしてイエスに出会い、彼に魅力を感じ、そして自分の意思でキリスト者になったという意識を持っています。共観福音書は、そういう意識で読んでもあまり違和感がありません。しかし、ヨハネ福音書が「私の羊」という時、それは生まれた時から決まっているという響きがあります。
キリスト信者になる人は「最初から決められている」という考えは現代人には狭いものと感じられるでしょう。しかし、自分がキリスト者になった後に振り返ると、この考えが割合に現実に即しています。
「なぜ、あなたは洗礼を受けたのですか」と問われると、それなりの答えはあるのです。しかし、その理由があったからキリスト者になったのかといえば、そうではないという気がします。こういうところに魅力を感じたという理由には尽くせないものがある。その理由なるものは、むしろ「 本当の理由」のほんの一部に過ぎないと感じます。私が最初から「イエスの羊」であったからだとしか言えません
〇「その羊も、私の声を聞き分ける。」
「本当の理由」を、あえて言葉でしようとするならば、教会の宣教の働きかけの中に、私を気遣ってくださる方の声を聞いたとしか、言いようがないかもしれません。C年に朗読される箇所にはこのようにあります。
「 私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。」(27節)
〇 私は30歳で洗礼を受けたのですが、その前に浄土真宗という宗教にかなり興味を持ち、一時期は、研究というほどではないがいろいろ読みました。ご存知だと思いますが、浄土真宗はキリスト教に非常に似た主張をしています。
「絶対他力」と言われますが、この主張に徹底していることでは、キリスト教よりはるかに徹底しています。私は若い頃には徹底しているということを優れたことだと考えがちな人間でしたが、その意味では、浄土真宗に魅力を感じたと言っても良いのです。キリスト教も他力宗教と言えますが、いろいろ論じているうちに、人間の努力(自力)も無視できない、いや大事だという視点が出てきて、なんだか徹底しません。
キリスト教における「自力と他力」の関係は、現在でもはっきりと表現できないのです。その意味では、キリスト教の主張は曖昧だと言われても仕方がありません。にもかかわらず、私は親鸞聖人の宗教には入らず、キリスト教信仰に入ったのです。
また、浄土真宗の聖典「 歎異抄」は実に名文です。
「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀に助けまいらすべしと、よき人(法然上人)の仰せを被りて信ずる他に、別の仔細なきなり」。リズムの良さといい、内容の鮮明さといい、しびれます。
それに比べると、新約聖書はあまり名文とは言えません。パウロの書簡などは、かなりごちゃごちゃしています。私は文章の美に魅力を感じる人間なのですが、その点から言えば、歎異抄や、蓮如上人の「白骨の御文章」の方がずっと魅力があります。にもかかわらず、私は浄土真宗の方向には行かなかったのです。
〇 私は「教会の宣教の働きかけ」の中に、「私を気遣ってくださる方の声」を聞いたと言いました。 このことは、これ以上は今は言えません。 教会の どういう言葉の中にそれを聞いたかは、具体的には言えません。
ただ、宣教の働きかけにあたっては、論理の一貫性や表現の美しさよりも、 キリストの気遣う声を響かせることを考えなければならないと思います。というか、論理の一貫性や表現の美しさが自己目的や自己目的にならず、キリストの気遣う声を響かせる媒体になるように努力しなければならないと思います。
〇 「キリスト者になる人はあらかじめ決まっている」という考え方は選民思想に繋がり、排他的になる可能性があります。だから、ヨハネ福音書だけでなく、共観福音書を合わせて読まなければならないのです。
実際、ヨハネ福音書の7章8章9章あたりの「ユダヤ人」との対話は、イエス自身が、「この人たちとは話が通じない」と最初から諦めているようなところもあります。それに対応して、ユダヤ人たちも、最初から喧嘩腰で対話をしようとはしていません。互いに話せば話すほど距離が大きくなるようで、読んでいて胸が痛くなります。
しかし、ヨハネ福音書は「キリスト者になるはずの人」に向けて書かれているのです。「私の羊」が道をそれてしまわないように、その道を最後まで立派に全うするために書かれているのです。「無縁の人」に向けて書かれてはいないのです。ヨハネ福音書で言う「ユダヤ人」とは歴史上のユダヤ人ではなく、キリスト教信仰に最初から無縁の人のことです。
これは現代人からすれば、ひどく心が狭いように思えます。カルト的に見えます。大事なことは、「キリスト教信仰に最初から無縁の人」は確かにいるが、具体的に誰が無縁の人かは、私たちには決して分からないということです。 いかにも宗教的に見える人が、案外洗礼は受けないということがあります。私たちは全ての人に可能性がある(この人はイエスの羊かもしれない) という前提で、自分の力に応じて宣教の努力をするのです。
「私には、この囲いに入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は1人の羊飼いに導かれ、 1つの群れになる。」(16節)
(了)