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年間第25主日(C)年 説教
ルカ16章 1~13節
◆ 説教の本文
創意と工夫
「管理人は考えた。
『 どうしようか。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。 土を掘る力もないし、物乞いをするのは恥ずかしい。そうだ。こうしよう。
管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを 作ればいいのだ。』
そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで・・・」
プロ野球の名選手であった長嶋茂雄の数多い伝説のうちに、こういうエピソードがあります。彼は天才型で、理論的に教えるのは得意ではなかったようですが、その代わり、自分の体を使って教えました。 「ここはこう、腰をこうひねって」、「こう打つんだ」というように、アクションを交えて熱心に教えました。引退して解説者になってからも打撃にコメントする場合は、「 こうするんだ」という風に、アクションを交えていた。ラジオ放送でもそれをやって、「 長嶋さん、これはラジオですから見えませんよ」とたしなめられたというのが、この伝説の落ちになっています。
イエス様が教える時、たとえ話を多用されたのは、信仰生活に必要なことを、アクション、つまり体の動きとして教えるという理由もあったのではないかと思います。
この管理人は「 不正な管理人」と呼ばれるように、行動の内容が模範になるような人物ではありません。しかし、行動のフォームには学ぶべきところがあります。 状況が 「こりゃ、まずい」となった時、呆然として、手をこまねいてはいなかった。状況を改善するために、創意工夫をした。「 一人一人呼んで」とあるように、考えついたことをきちんと実行していった。
この管理人の考えたアイディアに実効性がどの程度あるかは、いささか疑問です。人間は頼みもしないことをやってもらっても、恩返しをすることは少ないのではないかと思います。しかし少なくとも、呆然と手をこまねいて、自己憐憫に耽ってはいない。このアイデアに効果がなくても、実行しようとするうちに、別のアイデアを思いつくかもしれません。
釣りをする人は気が長いものだと思われがちです。それはそれで一つの真理ですが、気が短い人の方が釣りには向いているということも真理です。いっこうに釣れない時、漫然と釣り糸を垂らしたままでいる人は良い釣り人になれない。しょっちゅう餌を変えたり、仕掛けを変えたり、釣る場所を変えたり、こまめに考える。考えるだけでなく、それを実行することが必要です。 しかし、やみくもに動き回りさえすれば良いというものではない。 一度座って、よく考えてから、創意工夫することがです。
キリスト教に限らず、宗教というものは徹底的な受動性を強調します。
救いは神から来るのです。人間はそれを感謝して受けるだけです。しかしそれは、怠惰でいいということを意味しません。例えば、自分の祈りがスランプに陥ったとき、その状態に甘んじていてはなりません。創意工夫して、スランプから脱出する方法を講じなければなりません。しかし、それを落ち着いてやることです。簡単に効果は上がらないかもしれないけれども、 腰を据えて、ひとつずつやっていく。
受動性と能動性の絡み合いの中に、キリスト教信仰の真髄があります。 その絡み合いの知恵を、イエス様は心得を教えるという形ではなく、アクションの形で教えてくださいました 。
「 こういう時は、こんな風にして打つんだ」と教えてくださいました。
☆ 説教者の舞台裏
1. この管理人は不正ではないという読み方があります。当時の管理人は小作料を決定する権限があり、地主に定額を納めさえすれば、超過分は自分の取り分であったというのです。だから、小作料を減額することも、ある程度は権限のうちである。
それはそうかも知れないが、無用の努力だと思います。この例え話のポイントは、「行動の形」にあるのです。主人公の人間性は問題ではないからです。倫理的には怪しい人である方が意外性があって、聴く人の興味をひくとも言えます。
2. アクションの仕方として読むという方法は、いろんな例え話に有効です。
善きサマリヤ人の例え話であれば、「 近寄る」。
放蕩息子の例え話であれば、「 そして、彼はそこを立ち」。
ただし、福音書の例え話の動きが自分の体に転写するほど、何度も読んで、 親しむことが必要です。
3. この例え話は、信仰生活の能動性の側面だけを強調しています。 信仰生活の受動性のことは、福音書の別の箇所に書いてあります。だから、福音書は 全体を読まねばならないのです。 自分の気に入った一部だけを読んでいてはならないのです。