西原理恵子が抱えた負の連鎖

西原理恵子が幼少の頃から上京して漫画家として食べて行けるまで、相当に苦労したことは有名であり、Wikipediaを読むだけでもなかなか大変であったことが伺える。美大に入るまで、入ってからも相当に貧苦に喘いでおり、みうらじゅんとの対談(「ユリイカ」2006年7月号:特集*西原理恵子)で「仕送りが七万で、母子家庭だったからそのうち四万は育英金で、それでどうやって課題をやれっていうんだって。絵の具チューブが一本千円もするのに。だから」(以下コンプライアンス的理由で割愛)と振り返っている。若者が何者かになるためすべき苦労のハードルが自然と高くなってしまうのはやむを得ないのかもしれない。しかし、こうした苦労はすべての若者が負うべき試練とまでは言えず、必要以上にこれを課すのは負の連鎖になりかねない。

西原は『はれた日は学校をやすんで』(双葉社・1995年)のあとがきで次のようなことを書いている(以下必要部分のみ抜粋)。

昔の絵っていうのは、ほんとに恥ずかしい。子供の頃から、成績表とか文集、写真なんか全部すぐ捨てちゃうクセがある。なんでかって、はずかしいから。
(中略)
で、なんでこんなに自分が恥ずかしいんだろと考えてしまうコトがよくある。夜、布団なんぞに入って、こんなことを考えてると、ものごっついフカミにはまって出てこれないので、この考えにはフタをするようにしている。
(中略)
つまり私は、自分自身にものすごいコンプレックスとゆうか、劣等感をもっているということだ。で、どこに?と考えると、やぱし、このてのモンは幼少期に出来るのが多いと思うので、子供の頃を思い出してみる。
(中略)
で、そこで考えた。きっと私は御幼少のミギリ、FBI御用達の催眠術ぐらいでないと思い出せることの出来ないような心の傷を無数におわされたのではないかと――。だったら犯人は誰だ。ママだ。
というワケで私は、幼い頃の自分の心の傷口におろないんをぬるべく、淑子ちゃん(←ママ)とディスカッションをこころみた。
(中略)
――二時間くらい続けたら淑子ちゃんが泣き出してしまった。泣いてすむのは小学生までだ。ヤワなアマだぜ。
それから後、いろいろな試行サクゴを繰り返しているうちに(淑子はあれ以来、昔話になると逃げる)、私にほんのすこしだけ、変化が表れた。印税がみっちりとたまりはじめたのである。そして見る夢が、知らない人や知ってる人間を、えばりながらボコボコに殴る夢なんだ。以前の私なら、決して見ることができなかった夢だ。これは何を意味するモノなのかっっ。
(以下略)

できれば負の連鎖はここで止めて欲しいのだが、これ以上残念なことにならないのを祈るのみである。

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