東京都第23区の選挙結果に残る平成与野党攻防の地層

河村建夫元官房長官の長男・河村建一氏が日本維新の会公認で東京6区から立候補する調整に入った、と報道されている。

河村元官房長官の長男、維新から出馬で調整 21・22年は自民公認(毎日新聞)
https://mainichi.jp/articles/20230620/k00/00m/010/325000c

この3年間での政治家としての河村家の没落は少々気の毒で、21年の衆議院選挙で林芳正(現外相)が山口3区(当時)からの立候補の意向を発表し、党との話し合いで河村建夫は政界引退を決める。そこで長男の建一氏を比例中国ブロックへ、という調整に入ったが、山口県連から反発(現職の杉田水脈を推す)を受け、比例北関東ブロックからの出馬となるも次点で落選してしまった。建一氏は翌22年の参院比例区で出馬するも再び落選し、現在に至っている。次回衆院選からの十増十減でも地盤を与えられず、候補者を急いで探している維新の誘いに乗ったと思われるが、今後こうしたパターンは増えるかもしれない。

現在の日本維新の会の前身となる2012~2014年の間の際にも同党は候補者を増やすべく様々な動きをしていた。この次期は民主党が政権から陥落する次期でもありことさら野党の動きは複雑であった。その中で衆議院東京都第23区は平成・令和の与野党陣取り合戦として非常に面白い古戦場となっている。以下に述べることに特別な政治知識はなく、ほぼWikipediaにある情報のみで辿っていくが(なので不確かな情報が交じることも否めない)、それだけでも十分なほどにこの選挙区は面白い地層を残している。

東京都第23区は次回の十増十減から区域は町田市のみとなるが、当初は町田市と多摩市(1994~2017年)、2017年から前回までは町田市と多摩市の一部であった。
平成前期、第41回(1994)から第44回(2005)までは自民党・伊藤公介の時代が続いた。伊藤公介は第33回(1972)に旧東京7区から無所属で出馬するも落選。第34回(1976)に旧東京11区から新自由クラブ公認で初当選を果たす。1986年、同党解党とともに自民党へ入党、二度の落選を経験するも、1996年には第2次橋本内閣で国土庁長官で入閣も果たした。ところが、小選挙区導入後連続4選の2005年に構造計算書偽造問題が指摘されたヒューザー、東日本住宅との関係が取り沙汰されてから次々と政治資金問題で追求を受けることとなり、第45回(2009)の政権交代選挙の際、民主党の櫛渕万里に6万票差で破れ落選する。櫛渕万里については後述するが、現在れいわ新選組の共同代表であるあの櫛渕万里である。
伊藤は起死回生を賭けていたが、東京23区の自民党支部長は公募で小倉將信が選出されてしまう。最初伊藤は無所属ででも出ようとするが、三男の俊輔が日本維新の会公認で東京23区からの立候補を表明したことによって息子の支援に回る。

伊藤俊輔は1979年に町田市で生まれている。のちの東京都第23区は生粋の地元となる。やや脱線するが、伊藤俊輔という氏名にピンと来ないだろうか。そう、伊藤博文の長州藩時代の通称である。少し恥ずかしい気もするが親の期待は高かったことがうかがえる。
俊輔は維新の公認をもらうために2012年に維新政治塾に1期生で入塾する。当時の日本維新の会は大阪維新と自民・民主・みんな各党から離党した議員らが合流(のちに太陽の党も)してできたばかりでもあり、新たな人材を求めていた時期であった。
そして迎えた第46回(2012年12月16日)の自公政権奪還を果たした総選挙、23区は小倉將信が得票率は低かった(30.16%)ものの勝利し、櫛渕と伊藤は落選した。この時23区は、櫛渕(民主)、伊藤(維新)、共産党だけでなく、みんなの党や日本未来の党などまで乱立し、非自公はまとまれない状況で負けは当然であったが、小倉の得票率が低かったのは新人であることだけでなく、伊藤の出馬も影響していたことが考えられる。
2年後のの第47回(2014)は小倉(自民)、櫛淵(民主)、伊藤(維新)、共産党の4候補の戦いとなるが、永田町へ行けたのは小倉のみである。「伊藤(維新)」と書いたが、この時の党は「維新の党」であり、同党は2016年に民主党と合流し民進党となる。だがこの時伊藤は民進党には合流せずおおさか維新の会へ行く。ネットの字面だけではこの時の事情はよく分からないが、元々の支持者との兼ね合いを考えれば民進党と距離を置くのは察せられることではある。

しかし、2017年の解散(第48回総選挙)によっていわゆる希望の党騒動が勃発する。この騒動は伊藤にとって(結果的には)好機となり、希望の党公認で23区からの出馬となった。
そうなると伊藤にとって気になるのは櫛淵の動向である。ピースボートの職員という経歴から民主党公認で伊藤の父を破った人物であれば、普通は立憲民主党から出馬すると誰もがイメージするはずであるが、意外な事態が発生する。なんと小池の排除リストに入っていたはずの櫛淵が希望の党公認で千葉3区から立候補したのだ。本稿のテーマは櫛淵自身ではないので今回この件についての経緯は追わない(不勉強ながら知らない)が大変興味深い事件ではある。この混乱の中、千葉3区の岡島一正は小沢一郎が無所属出馬となったことも相まって櫛淵の出馬によって立憲民主党の公認を得ることとなった。小沢側近の岡島に対する小池の何らかの意図ではないかと邪推できるが、これを櫛淵が受けたのは謎である。選挙区は違えど、図らずも伊藤と櫛渕は同じ政党の所属で戦うことになったのである。

結果は、伊藤は小選挙区で勝てはしなかったが、比例復活で初当選を果たした。千葉3区へ行った櫛淵は惨敗し、ここで一旦浪人の身となる。結果、岡島を邪魔しに行っただけの櫛淵の行為であったが、共産党の選挙協力もあり、岡島は何とか比例復活で議席は維持した。櫛淵のその後であるが、第49回(2021)はれいわ新選組公認で東京22区から出馬するも落選。2022年、山本太郎の議員辞職によって繰り上げ当選となり、永田町に復帰。同年代表選に立候補し敗れるも、そののちに大石晃子と共同代表になる。とはいえ、21年の選挙は得票率は11.41%しかなく、議員バッチを維持するには何かしらの工夫が必要な状態は変わっていない。

話を伊藤に戻す。伊藤は希望の党所属の流れから2018年に国民民主党に参加するが、翌年離党し、立憲民主党の会派に所属する。2020年に立憲と国民はともに党をリブートさせたことによって伊藤は立憲民主党に参加し、第49回(2021)の選挙は共産党の選挙協力と、れいわ・社民の推薦も得て小倉に6474票差まで迫り、得票率48.75%、惜敗率95.14%という高得票によって比例復活となり2度めの当選を果たす。今後、東京都第23区において野党間でどのような選挙協力がなされるのか、維新の候補が出てくるのかは分からないが、自民党政治家の父の地盤を引き継いで政治人生を始めた伊藤俊輔は、野党第一党の現職議員として第50回(2023?)の総選挙に臨むことになる。
因みに父・公介は存命で、2018年春の叙勲で旭日大綬章を受章している。

東京都第23区はWikipediaを眺めているだけで平成・令和初期の政党の盛衰が垣間見えてくる不思議な選挙区と言える。


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