安倍家岸家考⑮(佐藤信介から岸信介へ)
次男・信介は地元の国木尋常小学校を卒業すると岡山中学入学の準備のため岡山医学専門学校の教授であった本家の叔父・松介のところを頼った。ここから2年間の岡山は信介にとって「第二の故郷として忘れ得ぬ」地となったと振り返っている(岸⑪p45)。
叔父・松介は身内だけでなく好んで書生の世話も焼いており若者たちで賑わっているような家であった(岸⑪p46)。信介も生活の世話は勿論のこと、英会話の稽古の機会を与えられたり、松介の趣味のテニス、釣り、浪花節などに付き合うなど、文化面での恩恵も多分に受けた(岸⑪p54-57)。
しかし、その叔父は明治43年(1910)の4月に35歳の若さで急逝してしまう。信介は岡山中学の2年になったばかりであったが、転校(山口中学)の手続きもあり急遽山口に帰ることとなった(岸⑪p58)。岡山が忘れ得ぬ地となったのは叔父との思い出の場所であることが大きい。
山口に戻ったその年の暮れ、信介の周辺に新たな変化が起きる。信介の父・秀助は岸家から婿に来ていたが、父の実兄・岸信政(信介にとっては伯父)が肺炎で亡くなった。岸家は娘(良子)が一人で男子がおらず、岸家と佐藤家の間で信介が岸家に入る下話は決まっていたようであったが、翌年信介が中学3年になった際にこの取り決めが顕在化した。良子は信介より5歳年下で数え年10歳であった。
初めて岸家に養子に入ることを聞かされたとき信介は「理由もなく嫌」「他姓を冒すのが嫌」であったという。話が決まってから直ちに婿入り改姓ということではなかったが、中学の間は移行期間として、信介はたまに岸家に訪ねて行って、夜は佐藤家に帰るような関係が続いていたという(岸⑪p161-162)。
信介の岸家の印象は「古風であり整然として」おり、「生活も物静かに落ち着」き「昔からの諸式がよく保存」されていたという(岸⑪p163-164)。このような家風は「乱雑な一切かまわぬ古いしきたりの殆ど残されて居ない佐藤家の空気とは凡そ対照的」(岸⑪p164-165)であったという。
信介が改姓するのは山口中学卒業後で、上京一年後、旧制一高には岸信介として入学している(以後は信介のことを「岸」と書く)。岸は一高の1年生までは寮ですごしたが、2年からは代々木に居を構え、良子と良子の母(チヨ)を上京させた(『わたしの履歴書』)。良子はそこからは実践女子に通うことになる。この時岸は18歳、良子は14歳。結婚式はその4年後(1919年)に行われるが、それまでこの二人の夫婦関係はどのようなものであったのだろうか。式を挙げるにあたって岸は、「私共は数年起居を共にし許嫁の間であったので」「結婚式は一般に行われるような形式や花やかさは持たず、又その際感ぜられるような興奮や思い出は残されなかった。言わば結婚式当日に済ます事柄を数年に亘ってなしくずして行ったようなものであった」(岸⑪p164-165)と述懐している。
「なしくずし」的に夫婦となっていったと読み取れるが、吉本重義は「官僚上がりの人達の書く思えないほど『あや』に富んだ、意味深長でそして上品な表現」(吉本⑩p45)と上品に評し、工藤美代子は「ふたりは事実上の夫婦関係にあった」と推定しつつ「この時代から見れば、特別奇異な感じもなかったと思われる」(工藤⑫p56)とまとめている。
そんな特別奇異ではないが一般的でもない学生生活を送った岸は『我が青春』でも『私の履歴書』においてもなぜか旧制高校の存在意義を強く説いている。また、その時代の学友との思い出に少なからぬページを割いている。1年で寮を出て早くに家庭を持った岸だが、娘義太夫にはまったり、学友たちと合宿や旅行に出かけたりと、それなりに青春はしてる。
良子は良子で女学生であったため、いわゆる所帯を持って落ち着く、という感じとはちょっと違っていたかもしれないが、帰れば家には妻が待っている状態にあったことは事実であり、そんな岸が旧制高校や寮生活について言及が多いのは何か感ずるところがあったのかもしれない。
岸は自らの人生を振り返る際、岸家に対して含むところがあるような言い方はしないが、自らのアイデンティが佐藤家に寄っていることを隠すことはない。岸の名付け親は佐藤家の中興の祖ともいえる曾祖父・佐藤信寛であるが、この曾祖父との幼児期の曖昧な思い出をかみしめるように述懐している。佐藤信寛は松門ではないが、吉田松陰とは同時代を生きた人物で、政治家として長州をルーツに持つことが示せる大きな存在でもあった。
母・茂世はスパルタ的ではあったが教育に熱心であり、それはある種の自由さとの裏表でもある。そして叔父・松介の存在も相俟って佐藤家の雰囲気は岸にとって居心地の良いものであったに違いない。もし佐藤信介のまま一高、帝大と進んでいたらどんな青春を送れただろうか。しかし、子供たちに一度も手を上げたことのない父・秀助は岸家からの婿であり、次男の自分が岸家に戻ることが筋であるということも理解していた。
岸は装置としての「家」の維持に迷いはないものの、「家」そのものに強く執着しているようには見えない。弟・栄作がのちに佐藤本家に養子に入るが、岸の育った佐藤家は母・茂世のために作られた分家であり、そこの次男坊という気楽さもあったであろう。家父長制に疑問を抱いている訳ではないが、自らが「家」の支配者として積極的に君臨しようという気概は感じられない。
では、誰が岸家を支えているのか。次回以降はそれがテーマとなる。
(つづく)
(佐藤家・岸家家系略図)
佐藤信寛┓
┏━━┛
┗佐藤信彦━┳佐藤松介━━寛子(栄作夫人)
┗茂世
┣━━━━┳佐藤市郎
┏━佐藤秀助 ┣岸信介
岸要蔵━┫ ┗佐藤栄作
┗━岸信政━━━良子(信介夫人)