作られた「悲劇」に感動できるか、あるいはパッションの全部盛りを消化できる体力はあるか

 手塚治虫が死去した1989年、漫画情報誌『コミックボックス』は5月号を追悼特集号として発行し、多くの識者や同業者の手塚の偉業を惜しむ声が寄せられた。ところがこの号には宮崎駿の異色のインタビューが載っている。追悼号であるにも関わらず、宮崎は「アニメーションに対して彼のやった事は何も評価できない」と手厳しい。宮崎は手塚が関与した1960年の劇場アニメ『西遊記』において、「孫悟空の恋人の猿が悟空が帰ってみると死んでいた、という話を主張した」ことについてその理由は「その方が感動するからだ」と言ったと先輩から伝え聞き手塚に絶望したと言っている。

 この先輩と思われるのは演出の白川大作のことで、「東映長編研究 第10回 白川大作インタビュー(2) 手塚治虫と『西遊記』」でこの件について証言している。手塚が悲劇を主張した理由は「そうすれば悲劇で終わる世界最初のアニメーションができ」るからだという。宮崎の伝聞証言よりもさらにえげつない。

 一方この件に関して手塚の公式サイトの作品紹介では、「『大切なものの死を乗り越えて、人は次なる成長をみつめなければならない』という手塚漫画が最後まで内包していたテーマをアニメーションでも表現しようとしていたことの現れ」としている。これはあくまでも組織としての手塚サイドが考え出した見解であるが、仮にこれが手塚治虫の真意であったとすると(おそらくそんなはずはない)、宮崎の手塚アニメは「安っぽいペシミズム」だと評した言葉が皮肉にも重なってしまう。

 マニアなら誰もが知るこのエピソードを紹介して何の話をしようとしているかというと、商業作品における「悲劇」とは何なのか、ということをちょっと考えてみたいからだ。感動的な「悲劇」のために登場人物を理不尽なめに合わせていいのか、もしくは作られた「悲劇」に我々は感動するのか、という問題である。

 現在、世間で話題のマンガ原作と劇場公開されたアニメーション作品がある。バスらせたい訳でも否定するために取り上げる訳でもないので、敢えて作品名は書かない。この作品は個人的には大いに感動し、正直涙もした。分かってくれる友の発見とその友とずっと何かをしていたい、というはかない夢からの再出発に心揺さぶられた。ただ、原作を読んだときから少し引っかかるところもあった。このモヤモヤについて考えてみたい。

 この作品において待っている悲劇は、5年前に起きた多くのクリエイターが犠牲になった事件を想起させるものと重なる。この事件の生々しい記憶は否が応にも我々の感情を揺さぶる。これが感動の道具になっていないか、という問題である。

 多く指摘されているように、本作はタランティーノの映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の影響を受けているとされている。『ワンス~』には映像の中で歴史事実に抗ってシャロン・テートの悲劇を救う、というテーマがある。そこから何かしらのポジティブなメッセージが込められている、と解釈はできる。理屈はそうだが、シャロン・テート事件は50年前の出来事であり、『ワンス~』ではそこが直ちに理解できる作りにはなっていない。そして本作で心動かされたほとんどの読者・観客は『ワンス~』の背景など知らないはずだ。
 とするならば、本作は『ワンス~』を楽屋オチ的なパロディとしてひそませているのではなく、作品の構造を再構成し映像からその意図が伝わるようにできている、ということになる。

 作者は映画パンフレットの中で「自分のネガティブな感情を吐き出したい」と答えている。他のインタビューなどからも、とにかくそうした感情の発露を優先した作法(さくほう)であることが察せられる。先行作はヒントにはなっているが、全部乗せでそうした感情が盛られているからこその真意が感じられる、ということであろう。

 ただ逆に言えば、私の中で若干引っかかった点、もしくは本作にやや乗れない(もしくは見るのが怖い)人が感じることに通じてしまう正体がこのパッションの全部盛りなのだと思われる。想起される事件も作者にとっては当事者性と同時代性から隠せない感情なのだとは思うが、全部乗せの中には生の刻みニンニクも山盛りになっている訳で、なかなかすべてを消化するのには体力が要る。
 
 数十年後、事件を知らない若者にこの作品がどう見られるか。その時に真価が問えるのかもしれない。
 
 手塚の『西遊記』、もし手塚の希望どおりに悲劇で終わらせていた場合はどうなっていただろうか。元々悟空にガールフレンドがいるという違和感から始まっているので、唐突感はあっても大して作品の評価は変わらなかったのではないかと個人的には思う。つまり、悲劇で終わる世界最初のアニメーションを見た子供たちは大して感動はしなかったろうし、この作品で「次なる成長」もしなかっただろうな、と。

 やはり作られた「悲劇」に我々は感動しないはずだ。


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