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高齢者の白血病 その後

noteの更新もすっかり滞り、忘れかけていた先月の初め、実母が亡くなった。

骨髄異形成症候群から急性骨髄性白血病へ移行して、2度目の入院治療から、戻って来る事が出来なかった。

最後に入院する時も、また退院出来る事を疑っていなかったと思う。
「根治する為には骨髄移植が必要だけど、年齢的に無理である事」
「高齢者向きの飲み薬・軽い抗がん剤などの新しい治療はあるけれど、全ての人に効果が出るわけではない事」
「どちらかというと、病気の進行を抑える為の治療である事」
「血液の病気というのは、状態の急変が多く見られる事」

などの説明は受けていたけど、本人は自覚症状は無く至って元気なのもあって、治る気満々だったように思う。
「治療してもらえるねんから、今よりは悪くならないやろう」という、妙な確信を持っていた。
年齢的なものと、もともとの性格が合わさって、都合の悪い情報は上手くシャットアウト出来ていて、呆れるくらい前向きだった。

コロナのせいで面会が制限されていて、入院中は病室に入る事が出来なかったので、看護師さんや主治医の方とも話せず、本人の思い込みフィルターがガッツリかかった話を電話で聞くしかなくて、ちゃんとした情報はなかなか拾えなかった。


1度目と2度目の入院治療の間に、10日ほど退院出来た時も、
「人混みは絶対避けて、なるべく二人以上の人には会わないように」
という医師の忠告を忠実に守って、友達や孫達の見舞いすら断った。

「でも退院してる時に会わんと、一生会われへん事になれへん?」
と私が言うと、心底驚いた顔をして、
「そんな風に考えた事無かった」と言った。


結局、孫達が祖母に会えたのは、病状が急変してからだった。

2度目の治療も数値が改善せず、退院出来ないまま3度目の治療に入った後も、
「全然良くなれへんねん。ご飯も美味しくないし」
と文句全開の電話がかかって来てたのだけど、ある日、
「このまま退院出来ひんかも知れへん」と気弱な事を言い出した。

流石に体調も下降気味かと思ったところ、肺炎を併発している事を主治医から告げられた。
そこからはあっという間だった。
主治医の許可をもらって、子供達と一緒に会いに行った。
意識のある時に一度。二度目の面会の時には、鎮静剤が効いていて、もう話は出来なかった。

そして、いつも通りの電話と肺炎の発症から、一週間もたたずに母親は亡くなった。

主治医の話や、ネットで調べたりもして、予後が良くない事や、急変するかも知れない事はある程度理解はしていたけれど、実際急変するとやっぱりびっくりするものだという事も分かった。

ただ、本当に最後まで自立して元気であった事に、感謝するし、自分も出来ればそうありたいと思う。

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