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第1章 揺れる三つ編み。–インドへ–

アキはまた苦笑いをした。
長い三つ編みがまたユラユラ揺れている。膝に届くのではないかというほど長いその髪は、中国では近代化するまで男がしていたという前世紀の頭髪を思い起こさせる。
3ヶ月前から住み込みで始めたメイドのことは嫌いではないし、彼女たちのような人間を見下すのは非常識なことも知っている。でも、アキとアメリカ人である夫の年齢が近いことやら、学歴もほぼ同等な上、夫婦間でフラットでフェアな関係を築いてきたと自負するアキには、読み書きさえろくに出来ない村人が朝方から自分の家のキッチンでコンロの前に立つというのも何か得体が知れない気がするのだ。しょっちゅう停電するような暗いコンクリ作りの家で、家族7人で6畳一間の隙間のような空間でなけなしの給料で暮らす、東京で育ったアキが全く触れたことのない世界は、教科書で教わった「貧困」と、「途上国」という言葉を超えて、もはや不気味である。
同じ21世紀を生きているのに、恐ろしく違うパラレルワールドを自由に行き来してる人間。地下人に地上人が会ったらこんな風に感じるのかもしれないという、何か相容れないものを、彼女の三つ編みから感じてしまうのだ。

アキたちはムンバイというインド第二の大都市に6月から越してきていた。
住み始めたアパートはマックスが選んだかなりモダンなマンションで、4部屋も寝室がある、20階建てのアパートだ。タイル張りの床やら大理石のキッチンカウンターや、子供達が三輪車を乗り回せるほどの広さは、アメリカでも日本でも簡単には手に入らないものだろう。家賃はインドの基準だと目が飛び出るほど高いが、アメリカの小都会であったら、広さと場所を考えればむしろ安めな方だ。アメリカから越してきた当初は、自然があまり無いのを少し不満に思ったが、4ヶ月も経った今は、新宿に住んでるようなものかと思うようになり、無い物ねだりは治まってきた。
マンションのすぐ横は鉄道、空港も割と近いため、電車も飛行機も見えると、下の子のベンジャミンは大喜びだ。最近めっきり車やバスに興味を示しだしたベンは、男らしさが満開で、上の子である大人っぽい早希とはまったく違う表情を見せる子供であることが、母親であるアキには面白い。やんちゃでいかにも子供らしい表情豊かなベンには、ここまで愛情を注ぎやすいのかと、自分でも驚くほどだった。早希のことが可愛いくないわけでは決してなく、むしろ苦境な環境で生まれた早希の方が愛しく、かけがえのない存在であることを日々思いださせてくれる。その一方で、早希は、幼い時に無表情な顔がデフォルトだった上に、性格がかなり内向きな印象だったこともあり、外交的で、割と新しく出会う人間ともすぐに会話を始められるアキには根本的にわかりにくさがあった。

マンションの他3棟の工事はまだまだ終わっていないため、絶えず何かを叩いている音がする上、インド人は引越し前に、自分の思い通りにインテリアを全て変えるものらしく、上から下から工事の音が絶えず聞こえる。
車の音、電車の音、時折聞こえる飛行機の音と鳴り止まない工事の音のせいか、街全体が動いているような不思議な感覚を覚える。この街が実際、ものすごい勢いで姿を変えていっていることを思えば、あながち間違った感覚でもないかと思う。アキは自分がこの街を受け入れよう、どこまでも自分の育ってきた国と違うこの国に馴染もうと少し焦っていることを感じていた。

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