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ONE 第二話 棘の壁と空気の壁

「カツミくん!」
 自室のある階にようやく辿り着いたとたん、カツミは背後から声をかけられた。彼のことを『くん』呼ばわりするのは彼女くらいのものだ。
 廊下にいた他の隊員から、カツミに冷ややかな視線が向いた。それを振り払うように、カツミはむっとした顔のまま声の主を無視して大股で歩き続ける。
「待ってよ!」
 艶やかな黒髪を揺らし、カツミの態度などお構いなしに追いかける少女。まるで子犬のように、無邪気に。
 他の隊員から失笑が漏れた。最高責任者の息子という鼻持ちならない人物と天真爛漫な美少女。絵に描いたような美男美女の組み合わせだが、カツミへの反感が増すばかりである。

「ちょっとぉ!」
 無視されたままの彼女が追いつくと、カツミの後ろについて一緒に部屋に入った。カツミはいまだ無言である。目も向けずにソファーに腰を下ろす。
「なに、怒ってんのよ」
 ぷぅと頬を膨らませた彼女の名は、セアラ・ラディアン。管制塔勤務のオペレーターで、カツミとは同期。恋人ではあるが、実際はセアラの片思いである。
「なにか言ってよ。お呼びでないの?」
 寂しそうな声を聞き、カツミがようやく顔を向けた。彼はセアラのことが嫌いなわけではない。気を許しているからこそ、部屋にも入れるのだ。
「ちょっとね」
 ふてくされた態度のカツミに、セアラが肩を竦める。
 彼女は、カツミの苛立ちの原因を本人よりも理解していたのだ。

「なにか飲む? 作ってあげるよ」
 カツミの返事を待たず、セアラが簡易キッチンの冷蔵庫を開ける。
「新しいの、右の棚」
 しぶしぶ承諾したらしいカツミからの返事。棚には封が切られていない蒸留酒の瓶があった。
「なによ、これ。こんないいのを飲んでるの?」
「もらったんだよ」
「誰よ、未成年にこんな高級品寄越すの」
「ドクターだよ。セアラも飲むくせに」
 カツミが子供のように言い訳をすると、不出来な弟をあしらう姉のような顔でセアラがくすっと笑う。
 テーブルの上にグラスと氷が並ぶと、すかさずカツミが手を伸ばした。

「眠れないって言ったら、これが処方されたんだよ」
「ずいぶんとひいきするのね。抗議しに行かなきゃ」
 かなり濃い目の一杯目をカツミが一気に飲み干す。眉をひそめたセアラのことは再び無視している。
 カツミはさっさと潰れてしまいたいのだ。酔い潰れるのは逃避の手段だった。何から逃れたいのかは、問われても答えられそうになかったが。

「フィーアのこと?」
 セアラの指摘は不意打ちだった。苛立ちの原因をカツミはあっさりと突き付けられる。
「知ってんのかよ」
 カツミの尖った声を非難の視線で押し返したセアラが、グラスに口をつけた。
 フィーアはカツミのライバル。所属は違うが、それくらいのことはセアラも知っていた。他の隊員と一緒にされたことにむっとした気分となる。

 フィーア・ブルーム。彼もまたカツミと同い年の新人である。
 小柄なカツミより少しだけ背が高いが、どこか少女を思わせる優しい容姿。さらりとしたクリーム色の髪と青い瞳を持つ、優れたパイロットだった。

 新人の彼らはいつも模擬訓練をしている。現在は休戦中。実戦がないのだ。飛行訓練はシミュレーション装置で行う。地上にいながら実際の戦闘と同等の訓練ができる装置である。
 カツミとフィーアの実力は互角。というよりもカツミがわずかに負けている。二人に勝てる新人はいなかった。その点で言えば群を抜いた実力だが、二番手に甘んじているカツミにしてみれば面白いはずもない。
 任務中のカツミは他人の挙動など眼中にない。自分のことで手一杯なのだ。そんな彼が、どうしても意識してしまうのがフィーアだった。

 ただ、最近カツミはフィーアに違和感を覚えていた。常に見ていることで気づいたと言ってもいい。
 フィーアは優秀でありながら注目されることを避けるような態度をとっていた。彼の持つ独特の雰囲気は、カツミとどこか共通する。
 棘を剥き出しにして他人を拒絶するカツミと、密度のある空気のような壁をつくるフィーア。
 二人は根本にあるものが同じだった。周りの評価は正反対ではあったが、他人に踏み込まれるのを拒絶している部分は、まるで変わらないのだ。

「また、シミュレーションで負けたの?」
「その言い方!」
 セアラには悪びれた様子がない。カツミの悪態など可愛いものだと思っている。出来の悪い弟の方も、自分の攻撃など通用しないことは分かっていた。

「今日は勝ったんだよ。でもあいつ、本調子じゃなかったと思う」
「えっ。どういうこと?」
 身を乗り出すセアラに、今度はカツミのほうが肩を竦めた。その手は既に二杯目をつくっているのだが。

「他の奴には分からないよ。でもいつもと違うんだ。うわの空でさ。違うこと考えてるみたいで。なのに5ポイント差でしか勝てなかったんだ」
「おやおや。そういうことね」
 セアラの小さな笑いが、カツミの気分を逆なでした。態度や視線で苛立ちを示しても、まるで効果がないのだ。勢い、手にしたグラスが一気に傾いて空になる。

 カツミは気を許した相手には誠実だった。嘘で誤魔化すようなことはしない。それにはいい面もあれば、当然のように逆もある。
 相手を傷つけないための白い嘘をつけるのが大人と言うのなら、カツミはまだまだ子供だった。

「で、セアラ。なんか用だったの?」
 素っ気ない物言いである。想い人にこんな言葉をぶつけられ、傷つかない女性などいないだろう。だがセアラはもう慣れてしまっていた。別にとはぐらかし、残りの酒をすうっと飲み干す。

「今日は先約があるんだけど」
 セアラはカツミの言葉の真意を察すると同時に、やり切れない思いになった。恋人と呼ぶには、あまりに距離のある相手なのだ。
 自分ではカツミを満たせないと、セアラは知っていた。だが相手の変化を待っている。カツミが心を開き、少しでも生きやすくなるのを待っているのだ。
 カツミの手にした三杯目が見る間に空になった。渋い顔をしているセアラのことはまるで無視である。当てつけのような態度に、さすがの彼女もきつい口調に変わった。

「いい加減にしなさいよ! 飲まないと、やってられないわけ?」
「……かもね」
 ぽつりとこぼしたカツミが、自虐的な行為をやっと中止した。確かにその通りだったからだ。
 しかしセアラの追撃は止まなかった。泰然を装っていたが、本当はひどく傷ついていたのだ。

「カツミくん。私、貴方の恋人なのかな」
「そうとも言うんじゃない?」
 冷めきった返答にセアラの心がぎゅっと凍る。本来は思慮深い彼女だったが、嫉妬と寂しさが言ってはならない言葉を引っ張り出してしまった。
「じゃあジェイは? 恋人?」
「非公式には、そう言うかもね」

 その名前はカツミの聖域。決して無くしたくない唯一無二の存在である。恋人とはセアラのためにある言葉ではない。ジェイこそがカツミの最愛の人なのだ。
 カツミはもう疲れたように瞼を閉じていた。黙り込んだ彼から伝わるのは、拒絶に隠された苦悩。
 セアラは、一時の感情でカツミを傷つけてしまったことを深く悔いていた。