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ONE 第十三話 最初で最後の賭け

 医務室を出たジェイは、再びカツミの部屋に入った。部屋主はいまだ不在。壁の時計を見ると、20ミリアをさしている。

 カツミの部屋のIDカードを無断複製したジェイは、実質フリーパスだった。
 カツミが仕事以外で行く場所と言えば、医務室くらいのものだ。これまで待たされることなどなかったのだ。

 ひとつ息を落としたジェイが窓を開けた。気圧の変化する鈍い音。とたんに入り込む、湿った冷気と車両の行き交う騒音。遠くの滑走路を整備隊の車が最終点検にまわっていた。基地はもう夜間待機の時間に入り、照明も幾分落とされている。

 窓の脇に椅子を置き、ジェイがドサリと腰を落とす。そして冷たい夜風の吹き込む中で、取り出した煙草にカチリと火をつけた。
 長雨の季節に入っている。今日は雨こそ降らなかったが、ずっと曇っていた。吐き出される紫煙と溜息が、まとわりつくような湿った外気に連れ去られる。

 煙草の横には小さなケースが置かれていた。入っているのは薬。頻発する痛みと吐き気に、既に極量を服用している。
 シドにはもう勘付かれているとジェイは思っていた。反応をうかがうために医務室に出向いてはみたが、こちらが口火を切らない限り何も言わないらしい。

 これがジェイの焦りのわけだった。もう十年もの間、誤魔化しながらなんとか凌いできたのだ。
 もちろんシドは知っている。その原因も予後も。十年前にジェイに転属を勧めたのは他ならぬシドなのだ。
 症状はずっと息を潜めていたが、一年前──カツミと知り合った頃から悪化していた。

 どうしたい? 自分に問い、ジェイはすぐに失笑をこぼした。どうにもならないのだ。こればかりは。
 もう時間がないと悟った時、ジェイは焦りを感じた。
 初めて守りたいと思った相手──カツミが自己の殻を割ることなく死に向かうのではと。雛鳥は孵ることなく卵の中で死ぬのではと。
 しかし同時にこうも思った。最期の瞬間まで、カツミを誰にも渡さないと。

 今、ジェイの心は揺れていた。フィーアはカツミの心を連れ去るのだろうか。その方がカツミにとって良かったのではと。
「本心でもないことを」
 とてもそんな気持ちにはなれない。だからこそ自分はあがいた。
 嘲笑う声がする。ひとつの綻びから何もかもが崩れていく。
 煙草を消したジェイが立ち上がって窓を閉めた。静寂の戻った部屋で、水の入ったグラスと薬のケースが並べられる。飲み下す錠剤の数は、用法などまるで守られていない。

 視線の先にあるのは、黒い煙草の箱。もう知らせなければ。時間の猶予はないのだ。同時に明かされる事実にカツミは何を思うのだろう。
 全てが手の及ばない場所で動き始めていた。それにあがいているのが、滑稽に思えるほどに。

 ◇

 21ミリア過ぎ。
 部屋に戻ったカツミは、いつもと変わらないジェイに迎え入れられた。却って不安になるほど、ジェイの声色は静かだった。
「やっと帰ってきたな」
「フィーアから聞いた。薬のこと」
 ドアを背に立ち尽くすカツミに、ジェイはそうかと答えただけで黙り込む。弁解の言葉もなければ、責める言葉もない。
 カツミは覚悟していた。ジェイに誤魔化しはきかない。まして自分には小細工など出来ない。フィーアと一線を越えたことなど、とうに知られているだろう。
 カツミを襲う罪悪感と不安。自分が何かをするたびに誰かを傷つけてしまうと感じていた。与えたいと思ったとしても、その何倍も奪ってしまうのだと。
 静寂の中、カツミは唇を噛みジェイは視線を逸らせている。耐えられなくなったのは、当然カツミだった。

「俺のせいだね」
「カツミ?」
「俺がいることで、みんなを苦しめるんだから」
 その時、ジェイはカツミの心の声を聴いた気がした。血を吐くような心の叫びを。

「でも俺はジェイから離れられない。ジェイを失くしたら全てなくなってしまう。人から奪うだけ奪って、自分だけは失くしたくないって思ってる。フィーアにも結局なにも与えられない。奪うだけで。ただ奪うだけで」

 ──見捨てないで。見放さないで。嫌わないで! ぜんぶ自分のせい。だけど捨てないで!

 ジェイの視線の先で、溢れる涙を気丈に拭うカツミが縋るように見つめていた。
 凪の海に波頭が立つ。冷たい水底に熱砂の嵐が吹き荒れる。カツミだけがジェイのこころに熱を与えるのだ。理性を失うほどの激しい熱を。
 自由と束縛の間で。受容と嫉妬との狭間で。慈愛と独占欲が大きく振り切れる中で。持て余すほどの情熱を。

 カツミを傷つけたのは自分だ。ジェイは己の愚かさを痛切に思い知らされていた。何ものにも代えがたい存在を自分は信じることが出来なかったのだ。
 ジェイが腕を伸ばすとカツミを抱き寄せた。聞かされた告白はとても苦かった。あまりにも苦い喜びだった。

 ◇

 白々と夜が明けはじめた頃、カツミは電話の音に起こされた。受話器から耳に飛び込んできたのは、上ずったシドの声。
「ジェイは、いるか?」
 カツミは返事もせずにジェイに子機を差し出した。こんな時間に、どういうつもりなのかと思いながら。
 だが用件を訊いたジェイが、すっと顔を強張らせ背を向けたことに疑問を持った。

 短い通話時間が重苦しく過ぎる。やがて受話器を置いたジェイが、カツミの視線を避けるように抱き締めた。きつく。身動きも取れないほどに。
「ジェイ?」
 身をよじるカツミにジェイが事実だけを告げた。もう決して変えることの出来ない事実を。

「フィーアが死んだよ」
 カツミが凍り付いたように動きを止めた。
「屋上から飛び下りた。即死だったそうだ」

 ──フィーア。コインの裏側。纏う呪いを清めし者。
 遠くから聞こえるはずもないサイレンの音がした。『予言』の結実にまた一歩近づいた合図のように。

「うそ……だろ?」
 カツミの身体が震えだす。だがジェイは、静かに首を横に振った。

 ◇

 自分は卑怯者だ。
 そう思いながら、フィーアはシャワーで湿った身体にシャツをはおる。恐怖心ではなく罪悪感。しかし他の方法など、もう思いつかない。
 これは最初で最後の抵抗。そして最初で最後の賭け。自分では決して結果を知ることの出来ない、勝ったとしても意味のない賭け。

「ごめんね」
 フィーアの瞳に再び涙が溢れた。
 謝ったところで許されることではないのだろう。でも今のままでは自分は生きながらに死んでいく。そんなことにはもう耐えられない。

 これが最後の選択。『導く者』は映し出していた。自分の行く末を。自分の定めを。
 カツミは確かに魂の双子だった。しかし自分とは決定的に違うものを持っている。違うのだ。大元が。内包されたものが。託されたものが。

 ──纏う呪い。
 自分に求められているものが死なら、喜んで受け取る。でもそれだけでは済ませない。
 背徳であろうと、カツミは生まれて初めて好きになった人だ。この想いだけは譲れない。どんな卑怯な手段を使っても譲れない。

 カツミはどうするだろうとフィーアは思う。
 あとを追ってくれる? 罪悪感を投げつけて逃げるだけの自分を恨む?

 果たされることのない想い。初めから全うすることを許されなかったいのち。コインの裏は決して表になれない。しかし、二つにひとつの賭けならできる。

 この想いはカツミに届くだろうか。こんな仕打ちを与える自分の想いは。でも自分は他の手段を知らない。いや、他の選択肢などないのだ。
 できることなら届いてほしい。もう二度と……会えないけど。

 夜明け近い薄青い大気のなか。寮の屋上からフィーアは飛んだ。やがて響いた重く鈍い音。彼が最初で最後に、みずから選んだことだった。