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ONE 第十一話 背徳への誘惑

 18ミリア。訪室したカツミをフィーアは微かな笑みすら浮かべて出迎えた。

「そんな顔しないの」
 困り顔の兄が、唇を噛んだままの弟をたしなめる。
 風呂上りなのかフィーアの髪は濡れていた。洗いざらしの真っ白なシャツ。服の好みまで似通っている。

「ジェイのこと知ってたんだね」
 カツミの問いにフィーアが苦笑いを浮かべた。知るどころか脅された相手なのだ。
 ひとつ頷いたフィーアがカツミの隣に腰を下ろす。膝を抱えて顎を乗せると、事実だけを告げた。彼の口調はとても乾いている。語る内容には、まるでそぐわない。
「最初は軍医に呼ばれたんだ。それから、ミューグレー少佐に脅されて麻薬を打たれた。その後のことはよく覚えていない。気づいた時にはもう誰もいなかった」
 絶句したままカツミが目を見張っている。

「能力を使えば逆らえたと思う。でも使わなかった」
「なんで」
「カツミなら分かるよね。下手すると相手を殺すんだから」
「……うん」
 初雪の景色がカツミの脳裏に浮かぶ。身を切るような冷たさ。土の匂いと血の味が。

「本当はもう現実から逃げたかった。やめられなかったんだ」
「さっきのユーリーって人」
「向こうで手を回したんだろうね。すぐ接触してきた」
「誰かに打ち明けようと思わなかったの?」
「そんなこと。ミューグレー家に潰されるだけだよ。あの人に何かを言えるやつなんて特区にはいないから」

 自分もフィーアと同じだとカツミは思った。
 抗いを捨てる。自己の一部である能力を拒む。カツミは能力のほとんどを封印していた。未知数と言われた能力だ。制御できるわけがない。

 ──特殊能力。それは祝福ではなく呪いだ。思念だけで殺人を犯す能力など誰が欲しがるだろう。何かの間違いを起こすと、大切な人すら殺める能力など。

「驚いた?」
「ごめんね、フィーア」
「なんで謝るの? カツミは悪くない。それどころか助けてくれたじゃない」
 フィーアの言葉はカツミの耳に入らなかった。罪悪感で心が苦しくてたまらない。フィーアを苦しめた原因は自分なのだ。大切にしたいと、愛おしいと思ったばかりの相手なのに。
「俺のせいだよ。ジェイは」
「カツミの恋人だよね。好きなの?」
「好きだよ」
 即答が返された。それだけはカツミの真実なのだ。嘘偽りのない真実。何があっても変わらないと思えること。その彼に悲しげな視線が向いていた。

「カツミ。いつもこっちを見てたね。何を考えてたの?」
「似てるなって思ってたんだ。だからその意味を知りたかった」
「自分もカツミのこと見てたんだよ。気づいてた?」
「そうだったの?」

 ──さあ、認めなさい。纏う呪いを清めし者よ。彼に託しなさい。これまでずっと、あなたの祖先がしてきたように。

 フィーアの脳裏に、またあの『声』が響いた。一年前から時おり聞こえる声。フィーアは念動力を持つ特殊能力者だ。他人の思考を聞くことは出来ない。なのに、同じ言葉が何度も繰り返し聞こえるのだ。

 さらにフィーアは不思議な夢も見ていた。砂浜に佇む美しい王女の夢を。彼女はフィーアにこう告げていた。

 『貴方は纏う呪いを清めし者。カツミという鏡の穢れを清める者。しかし貴方の父親はその運命に抗った。私はこの星の意識の底を洗う機会を失った』と。
 その時フィーアは、今度もまた『要らない人間』と言われたように感じた。あの王女に自分の運命を握られているとしたら、自分はカツミのための道具なのだと。機会を失ったということは、もう不要なのだと。

 カツミは自分と同じように辛い子供時代を過ごした。でもなぜこんなに眩しいのだろう。自分が銃口を突き付けた時ですら、カツミは美しかった。毅然と目も逸らさずに、鏡のように自分を『映した』。

 フィーアはカツミが選ばれたわけを知りたかった。自分ではなくカツミが選ばれたわけを。
 今なら分かる。二人は似ているようで根幹が違うのだ。コインの裏が表にはなれないように。カツミは死に手招かれても生きることに縋る。どんなに死に魅了されても最後にはそれを振り切る。

 フィーアは気づいた。カツミだけは生かさなければならない。それが声の意味。『託す』ということだ。

 なぜだか切なかった。胸が苦しかった。目の前にいる美しい人。彼が自分の弟であることが眩しかった。
 それと共にフィーアは自分の本心をカツミという鏡に炙り出されていた。……カツミが欲しい。ただのひと時でも。ほんの一瞬であっても。

 ──青い瞳。夜明け前、ほんのひと時だけ世界を染める色。この星の海原と、ひとつ繋ぎとなる安息に誘う色。波間が揺らぐ。水底に向かう光は、やがて熱を失くして静寂に横たわる。

「ねえ、カツミ。それほど深く愛されるって、どういう気持ちなの?」
 突然の問いにカツミがすっと息を飲んだ。返せる言葉が浮かばない。フィーアがさらに畳みかけた。
「なにを想いながら抱かれるの?」

 ──水底の瞳が深海にいざなう。ざわざわと切なさを湛えて。薄明の瞳が風を送る。さらさらとこころの際を撫でながら。

「フィーア」
「ごめん。羨ましくて。ううん。妬ましくて」
 ──自分もカツミのこと見てたんだよ。気づいてた?
 同じ魂の誘惑だった。鏡であるカツミにフィーアの本心が映し出される。寸分たがわずに、そのままのこころが。
 カツミがフィーアの頬に手を添えた。衝動だった。抑えがたい誘惑だった。

「教えてほしい?」
「……うん」
 春の初めに生まれた小鳥が、冬のただなかに生まれた小鳥にキスをする。羽根が触れるように。無邪気に。

 ──さあ、認めなさい。纏う呪いを清めし者よ。
 フィーア。彼もまた導く者を生かすために捧げられるのだ。この海に、いのちの海に、ひとつの泡となって。

 ◇

 優しいキスだった。こんな安らぎを求めていたとフィーアは思っていた。
「背徳って言うの? これ」
「カツミが後ろめたく思うことないよ」
「うん」
「今だけでいいから、抱き締めて」
 確かに背徳だとフィーアは思う。しかし、湧き上がる気持ちに抗う必要などない。
「好きだよ。カツミ」
「うん。好きだよ」

 これが自分の運命だと、フィーアは既に覚っていた。
 好きな人ができたとたんに手放すことを求められるとは、運命とはなんと残酷なことを強いるのだろうと。
 最後ぐらいは抗いたい。
 フィーアは、そうも思っていた。これまでただの一度も、欲しいものを欲しいと言えなかったのだから。

 フィーアの髪を撫でていたカツミがふいに動きを止めた。立ち上がる彼が色の違う瞳でフィーアを見つめる。生死の狭間にある瞳で。

「シャワー浴びてくる」
「いいの?」
 フィーアが念を押した。二人は兄弟。これは背徳なのだ。だがカツミは迷いのない笑みを浮かべると、さっと背を向けた。

 ジェイはカツミを許しはするだろう。一時の気まぐれと笑うに違いない。自分はその程度の相手なのだ。
 でも、それでいいのか。カツミの心に永遠の印を残したいと願ってはいけないのか。
 シャワーの音が止まった。それを耳にしたフィーアは、着たばかりのシャツのボタンを外していった。