二月の棘 第十三話 次の手帳
惚れられたって? 呪いの手帳に惚れられたってどういうことなんだ?
手帳を手にしたまま僕は困惑していた。
姉はスッと立ち上がり鳥居の外に出ると、携帯灰皿を片手にさっそく紫煙を吐き出していた。マイペースで唯我独尊な姉であっても、さっきまでの話は結構ショックだったのか? と僕は思ったが、どうやらそれは勘違いだったらしい。近づいた僕を認めた姉は、ニヤリと笑って皮肉ったのだ。
「あんたも罪なやつよねぇ」
近くにいた奈緒まで口に手をあてて笑っている。
呪詛だの人の心を喰う手帳だのと非現実の話をしていたというのに、なんでこうも恥ずかしい気持ちにならなきゃいけないんだと、僕はムッとした。
「女神さまに惚れられた男ねぇ」
追撃が来る。姉のからかいを聞いた奈緒が肩を震わせて笑い出す。
さらなる追撃を避けて、僕は佐野先輩の座っているベンチに腰を下ろした。ところが先輩も僕の顔を見て小さく笑った。まったくうんざりだ。
「瑠衣ちゃん。たまに飲み会に顔を出してただろう?」
佐野先輩の言葉に、僕は戸惑いながら頷く。
瑠衣は僕が同僚達と飲み会をする時にもやってきた。あの頃は僕の生活の全てに瑠衣がいた。同僚達は僕らが結婚すると思い込んでいたし、僕も当然そうなると思っていた。
僕らが別れた時には随分と驚かれた。一番ショックだったのはもちろん僕だ。しかし僕は瑠衣の家庭事情を知っていたので、彼女を責めることは出来なかった。
「瑠衣ちゃんを自助会で見た時に、あれっと思ったんだ。それから君のことを思い出した。君たちが付き合ってた頃は、みんなで羨ましがってたんだよ。知ってたか?」
「知りませんよ。そんなの」
なにやら佐野先輩の方からもあらぬ攻撃が向けられる予感がして、僕は身構える。
「彼女にモデルを頼んだのは、君にひと泡ふかせてやろうと思ってね」
うわ。思わず身を引いた僕を見て佐野先輩が笑った。
「こんな可愛い子と付き合ってたのに、あっさりと手放してしまうだなんて君も罪なやつだなと思ってね。彼女はまだ君のことを好きだったと思うよ。君が自分のことを探し出してくれると待っていたのかもしれない」
「まさか」
「もう彼女に聞けないのが残念だけどね」
そう付け足すと、佐野先輩は自嘲気味に目を細めた。
境内の向こうから姉と奈緒の笑い声が聞こえてくる。
「あ。でも、由宇さんみたいな人がお姉さんだったら嬉しいかも」
二人は初対面ではなかったけど、間に瑠衣がいたのでそこまで親密に話したことはなかった筈だ。それなのにやけに盛り上がっている。
隣に座った先輩にも奈緒の声が聞こえたらしい。なぜか吹き出して笑っている。
「君はほんと草食系だねぇ」
なにやら分からないことを告げられて、僕は先輩の横顔を見つめた。
確かに僕はエノキと糸こんがあればいいし、何かに突き進むよりも飲み込んで黙っていたほうがいい泥水だ。
女心なんてちっとも分かっていないシスコンだし、マンションと職場の往復だけでなんとなく毎日を過ごしている。つまらない人生を、こんなもんだと思いながら過ごしている。
「ここの神様は、呪詛を叶えるだけじゃなくて縁結びの神様かもな」
先輩に謎をかけられて僕は混乱した。視線を手元に落とすと手帳が目に入る。供養がはじまるまでに読まなければ。
分厚い手帳だった。全てを読む暇などない。僕は手帳の真ん中あたりを開いた。記憶通り、几帳面にびっしり書きこまれている。開いたページには、こう記されていた。
『嗚呼、麗しき棘よ。麗しき棘よ。私の心を刺す棘よ。私はその棘にぬらぬらとした怒りを覚えながらも、その痛みに恍惚と身悶える。私はその棘に心の炎を煽られて、燃え盛るままにこの身を焦がして朽ちてゆく。灰となった私を貴方は抱いて泣くのだろうか。灰となった私を貴方は抱いて笑うのだろうか』
この記述は手帳の真ん中ではなかったはずだ。
不思議に思いながら、何度も読んだ文章をもう一度読み返す。そして次に書かれた記述に目を見開いた。
『自分に課せられた辛い出来事を棘というのなら。みんな棘を抱えている。皆がその痛みを背負っている。時には正面から向き合い、時にはうんざりして目を背けながらも、なんとか生きている。棘があっても人は生きていけるし、棘の存在が人を動かす原動力になることもある。
人のなかには恨みの感情も憎しみも当たり前のようにある。それをなだめすかして、みんななんとか生きている』
ほんの少し前、僕が心の中で思った通りのことが記されていた。一言一句そのままに。まるで僕の心を読み取ったように。
僕は誰にも話していない。心の中で思っただけだ。誰かが書く暇などあるはずもない。なのにそっくりそのまま文字にされている。そして、僕がこのページを開くのを待っていたかのように目の前に示された。
いるんだ。この島には女神が。本当にいるんだ。
僕は手帳のことを気味が悪いと思っていたけれど、棘の刺さった人間の心を餌にしている魔物だと思っていたけれど、この手帳は人に刺さった棘を抜いてまわっていたのか? それを供養するために動き回っていたのか?
「お待たせしました」
崎谷さんが神官の装束に身を包んで拝殿の前に歩いて来た。
僕はちょっと名残惜しい気持ちで、崎谷さんに手帳を返す。
再び全員で一礼すると、拝殿に入り床に座った。蓋をされた木箱の上に千鳥格子の手帳が置かれる。
太鼓の音が始まりの合図になった。崎谷さんがお祓いをしている間、僕は目の前にある鏡を見つめていた。二月の淡い陽光の中、曇っていた鏡が光を発していた。
ちょうど鏡の位置に太陽がさし込んだのだろうと思ったが、拝殿の入口は分厚い曇りガラスだ。光が反射しているのかそれとも鏡自体から光が発せられているのか僕には分からない。
最後にまた太鼓の音がするまで、僕はずっと鏡の光を見つめていた。
二月の末日だ。まだ短い昼間の日差しに押されるように、僕らは崎谷さんにお礼を述べると神社を後にした。
帰りの石段も結構きつかった。情けないことに膝がガクガクする。
こんな所を毎日上り下りしている崎谷さんや、ひょいひょいと降りていく篠田さんは一体どんな体力をしているんだと僕は思った。
姉と奈緒はお祓いの終わった開放感からか、ますます盛り上がってガールズトークを繰り広げているし、佐野先輩はデジカメで景色を撮る余裕。僕だけがみんなから取り残された気分がする。
船はもう船着き場に着いていた。
夕方の日差しの中で船が海に出ると、僕はまた一人で舳先に陣取る。島に行く時よりもずっと風は冷たかったが、一人でいたい気分だった。
喉が渇いて、僕は背負っていたリュックから水の入ったボトルを取り出そうとジッパーを開けた。ペットボトルの隣に見慣れないものが入っている。
そして僕は、それが何かを察した途端にリュックから飛びのいてしまった。
手帳だった。
文庫本サイズの、今度は白と黒のツートンカラーの革表紙の手帳だった。
二、三度深呼吸をしてから僕はその手帳を取り出してみた。
内表紙には2014と今年の年号が箔押しされている。そして中は全く記述がなく真っ白だった。
『手帳に惚れられましたね』
崎谷さんの言葉が耳に蘇ってきた。冷たい風のせいではない寒気がする。
「僕の中の棘は僕だけでなんとかするので、もう結構です」
そう呟いてはみたが、あの島の女神はちょっとお節介らしい。
「どうしよう」
ただ、僕の中の恐怖感は薄れていた。いい歳して、たかが手帳に振り回されている自分が情けない。
怖いものじゃないんだ。この手帳は。
人の業を喰ってまわっているのではなく、人に刺さってしまった棘を抜いて、傷みをとってやろうとしているだけなんだ。
こいつに書き記されていくことは、他人には言えないような呟きだったり、ちょっとした愚痴だったり、胸くそ悪いけど的を射るようなことだったりする。
この手帳は、島の女神のお使いなんだろう。
「だからといって、なんで僕のとこに来るんだよ」
いや……。僕みたいな不器用を絵に描いたような奴の所に、この手帳はやって来て、引っ搔き回して笑っているのかもしれない。
もう乗り越えていいことにずっと拘り続けていたり、くだらないと思いながらも変えられなかったり、大事な人が離れていくのをただ見送ったり。
趣味もなければ目標もない空虚な人生。
ずっと人間たちの怨みつらみを見続けてきた神様からしたら、そんなものここに書いて、さっさと次に行きなさいと言いたいのかもしれない。
「エノキと糸コン以外も食おう」
取りあえずくだらない誓いをたててから、僕はリュックの中に手帳を押し込む。
船室の中からやけに盛り上がった声が聞こえた。嫌な予感がする。窓の向こうから姉が僕を見て、ニヤリと笑っていた。
『二月の棘』 了