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ONE 第二十八話 神と罪人の蜜月

 その日の夜。突然訪室したカツミに、ロイは驚きを隠せなかった。息子の顔をしたカツミは、微かな笑みすら浮かべて色の違う双眸を輝かせている。

「改心でもしたのか?」
「まさか。俺はもう、そこにはいないよ」
 息子の返答は、父の皮肉よりも数段辛辣だった。ロイには、カツミの冷笑の真意が読み取れない。
「訊きたいことがあって来たんだ」
「訊きたいことだと?」
「もう隠す必要なんかないだろ?」
 ジェイが特区を去った今、カツミが知りたいこと。
 それは、これまで言い出せず、言う必要も感じて来なかったことである。ロイは一瞬視線を外したが、すぐに息子を見据えて問いただした。

「知ってどうする」
「あんたの二の舞にならないための判断材料にする」
 意外な返事だった。今までのカツミなら、到底口にしない言葉だ。
 二の舞とはまたずいぶんな言い草だとロイは思う。とはいえカツミにとっての自分は、恋人の命を縮めた加害者なのだ。

「では、これは私の義務だな」
 返事を聞いたカツミが、ロイの向かいに腰を下ろした。それから、ロイの手にしていた煙草を見てあからさまに顔をしかめた。ジェイの喫ってるのと同じ銘柄じゃないか。子供っぽく唇を曲げたままのカツミに、ロイが訝りながら訊く。

「……喫うか?」
「それより飲みたい」
 いずれにせよ未成年のカツミには不適切だが、素面では聞けないだろうとロイが譲歩する。
「私の分もつくるなら、好きにしていいぞ」
「仕方ねぇな」
 さっと立ち上がって簡易キッチンに向かう息子の背を、ロイの視線が追った。

 三月になればカツミも二十歳だが、離れていた月日は十二年に及ぶ。幼かったカツミの印象が強いのだ。
 昔のジェイを偲ばせる既視感を与えながら、カツミが棚の酒瓶を吟味している。やがて一本の蒸留酒を取り出すと、グラスと氷を並べた。その仕草を見て、ロイはようやく幼かったカツミの面影を押しやった。

 話さなければならないことは多い。そして重い過去は逃避の足跡だった。
 相対する相手に逃げ道を残さない。真実を映す鏡は、相手が父であっても容赦なく突き付けられていた。

 ◇

「あんたはまだ、ジェイのことが好きなのか?」
 真っすぐな追求だった。問いかけながらも、カツミは緊張を抑え込むように、二杯目を作っていたのだが。
 ロイは過去を手繰るように視線を泳がせた。

「恋愛感情なんてものとは、かけ離れていたな」
「でも、恋人だったんだろ?」
 恋人だったことは事実である。だがロイは、その定義に違和感を覚えた。口をつぐむと、手のなかのグラスを揺らしながら考え込む。
 ──ジェイは欠片。空洞を埋める唯一無二の欠片だった。だが自分は、あっと言う間にそれを失くしたのだ。

「身体の関係だけで恋人と呼ぶのならな」
「えっ?」
「私はジェイと戦っていたんだよ。最初から負けていたがね。愛情を育てるなんて仲じゃない。本音を言い合ったことすらなかった。別れた後も、私はずっとジェイの出方に怯えていたんだ」

 ──神と罪人の蜜月。
 ロイは自分の罪を再び突き付けられていた。失くしたものの大きさを。気付けなかった愚かさを。抱え続けてきた諦めを。逃げ惑い、抗うことが、社会的には認められていくという皮肉を。

「ジェイがお前にどう言ったかは知らないが、十年前の事故の後に彼は私を庇ったんだよ。本来なら私はミューグレー家に潰されてた。でもジェイは私から離れずに、自分が誘ったと嘘をついたんだ」
「ジェイが嘘を?」
「自分は跡継ぎにはなれない。自分が好きなのは、この私だとね。全て嘘だよ。私を巨大財閥から守るための方便だ。まだ成人すらしてなかったジェイが、私を庇うために大嘘をついてみせたんだ」
「……」
「それ以来、私は真綿で首を締められるように過ごして来た。ジェイの行動にいつも怯えていた。あれが私の元を離れた後も、お前を手にした後も、私はただの傍観者だった。……そしてフィーアの事件だ」
 その言葉にカツミが顔を曇らせた。

「私は、次はお前が殺されると思った。……誤解だったようだがね」
「あんたはなんで他人の人生を狂わせるんだ。フィーアの親も、フィーアも」
「そして、お前のもな」
 自嘲とも開き直りとも取れる表情をロイが浮かべる。
「なぜなんだ?」
「知りたいか?」
 カツミの先にあるトパーズの双眸が、大きな何かを握り潰すように鋭い眼光を放っていた。
「思い出したくもないだろう? 十二年前のことは」
 ロイの言葉にカツミの顔が強張る。
「一年前のこともな」
 まざまざと再現される記憶。今日と同じ初雪の降った夜。──絶望を超えた日。死に魅入られた日。そして、ジェイにいのちを拾われた日。

「こんな雪の日だったな。夜中にジェイが来て」
「ジェイがここに?」
 食い入るようなカツミの視線を避け、ロイがまた氷の溶けたグラスに目線を落とす。
「あいつら全員殺してやる。そう言ったよ。怒りで顔を真っ赤にしてな。ジェイが私にものを頼んだのは、あれが最初で最後だった」
「じゃあ、あれは」
「ジェイに頼まれて私が処分した」
 ロイは思う。ジェイの頼みがなければ、自分はカツミを見殺しにしたかもしれないと。心を殺すために。支配するために。自分に課せられた運命を嘲笑うために。

「あの時と同じ状況を、私は七歳の時に経験した」
 ふいに、ロイが衝撃的な事実を吐き捨てた。目を見張ったカツミの前で、苦悩を噛み潰す口元が歪む。
「あの日、私は一度死んだんだ。その代償をまわり全てに負わせようとしてきた。誰かを愛するなんて絵空事と思ってきた。欲しいものは奪うんだよ。奪われたものを取り戻すためにな」
「……いいのかよ? それで」
「同情か?」
「そんなんじゃねえよ!」

 たった七歳で絶望に突き落とされる。自分に与えられた仕打ちは、父が抱えてきた呪詛の塊だったのだ。虐待の連鎖。あってはならないことだった。
 ずっと許せずにきた父もまた、許せない怒りを抱えていた。カツミは怒りを向ける先を失う。この世の不条理に心が凍る。
 トパーズの双眸は、もう過去を突き放していた。煮えたぎる苦悩を素手で掴みながらも。
 カツミには分からない。必死にあがき続けている彼には、父の諦念の理由が分からない。その彼の前にロイが乾いた笑いを放り出した。

「ははっ! 私の予定が台無しだ」
「どういう……意味だよ」
「お前に軍人は向いてないということさ。この仕事に心はいらないんだ。ただのゲームを百年も続けるような国だ。欲しいものは奪って権力を得る。それしか前に進む方法はないんだ」

 それが、この国の最高位の軍事基地で、最高位の地位にいる人物の本音だった。地位を得れば、力を得れば、彼は『束ねるもの』の力を借りなくとも、この世界を変えられると思ったのだ。
 最後の生贄とされたロイが、この国の馬鹿げた争いを終わらせることが出来るなら、もう『導く者』など必要としない。そんなことが可能であるなら。

「それがあんたの生き方なのか?」
「そうだ」
 ロイが即答した。どうしても譲れなかった。
 しかし、カツミの思いはロイとは違うものだった。
 ジェイに映されたいのちの色は、人から奪うものではなく、人に与えることを教えていたからだ。
「俺は、心は必要だと思ってる。どんな中にいても必要だって。心を殺さずに『許す』方法ならあると思ってる。今は無理でも、諦めなかったらいつか掴めるって」
「私の二の舞にならぬようにな」
 支配することで殺そうとした息子の決意だった。

 失敗したな。そうロイは思っていた。
 束ねるものに抗うためにカツミを支配してきたというのに、よりによって、それをジェイに遮られるとは。
 唯一の欠片。ずっと抱えて来た虚無感を埋めてくれたジェイ。しかしそのジェイにまで、もう諦めろと言われたようじゃないか。

 息子の顔を間近に見ながらロイは思う。
 それにしても、カツミは一気に変わったな。まさか、許すなんて言葉を聞かされるとは……。
 しかしロイは、すぐさま自分の安堵を否定した。
 馬鹿馬鹿しい。息子の成長を喜ぶ父親にでもなったつもりか? そんなものは、とっくに捨てたじゃないか。
 悪魔にでもならなければ、束ねるものには抵抗できない。そんな感情は自分にはいらないものだ……と。