見出し画像

『ノラネコシティ』 Special episode 「day off」

 今日は久々の非番だった。
 ベンことベンジャミン・ガルシアは大きな欠伸をひとつこぼしながら、街のメインストリートを行く当てもなく歩いていた。
 ここキャットランド市――通称ノラネコシティは、蔓延しているドラッグのせいもあってか、犯罪が後を絶たない。殺人、強盗、暴行、窃盗、性犯罪。事件が起こらない日はなく、犯罪率は年々増加の一途をたどっている。
   この街の治安を守っている軍警察。その一部署である捜査局の局長という肩書きをもつベンは、常に多忙な生活を送っていた。彼に限らず、捜査局に所属する捜査官は皆、多忙だ。事件解決のために何日も軍警本部に泊まり込むことだってある。
 休みの前日は遅くまで飲み歩くことが多いベンだが、連日の勤務の疲れのせいか、今回はそんな気にはなれなかった。自宅に戻って広いベッドに倒れ込むと、そのまま泥のように眠り、気付いたときには次の日の昼を過ぎていた。今日は用事もないし、特にやりたいこともない。とはいえ、このまま家の中にいても暇だ。散歩でもするかと家を出て、気の向くままに街を歩いている。
 セントラルパークの前に差し掛かったところで、ベンはふと足を止めた。公園内にあるジョギングコースに、よく知る男の姿を見つけた。メイ・ウィッカーシャム――捜査局に転属してきたばかりの捜査官。ベンが警護局から引き抜いてきた直属の部下である。
 ――そういえば、あいつも今日は非番だったな。
 何日も捜査局に泊まり込み、殺人鬼を追い続けていたのは、彼もまた同じであった。
 Ψをもつ超能力者ばかりが集まるエリート集団の捜査局に、唯一、Ψをもたない「一般人」として所属しているウィッカーシャムだが、その働きぶりは申し分なかった。よくやってくれている、とベンは評価しているし、仲間からの評判もまずまずだ。Ψのない彼独自の視点が事件解決に役立つこともある。その度に「さっすが、メイちゃん。鋭いねえ」と褒めている――彼の劣等感を取り除くためには、同僚の前で彼の能力を認めてやることが大事だろうと、ベンは考えていた――のだが、ウィッカーシャムからはきまって「嫌味か?」と可愛げのない言葉が返ってくる。とはいえ、その口元が普段よりやや緩んでいることを、ベンは知っている。
 ウィッカーシャムの仕事ぶりには文句はない――のだが、ただ、もう少し周囲と打ち解けてくれれば、とは思う。慣れ合いが好きではない彼の性格は理解しているが、いつもむすっとしていて近寄りがたい雰囲気を醸し出しており、せっかく新入りとコミュニケーションをとろうとしている他の捜査官たちも、その点に関しては苦労しているようだった。せめて、愛想笑いのひとつでも覚えてくれればと願うが……無理だろう。あの男が笑うところなど、見たことがない。
 ウィッカーシャムはスポーツウエアを身にまとい、公園内をランニングしているところだった。こんな久々の休日にまでトレーニングをしているとは感心せざるをえない。努力家なあの男らしいな、とベンは思った。
 そのときだった。不意に、ウィッカーシャムが足を止めた。
「――おい、なにをしている」
 彼が声をかけたのは、ひとりの少年だった。十歳前後くらいだろうか。
 ジョギングコースの中央には大きな池がある。その少年は、池を取り囲む柵から身を乗り出し、水面に向かって懸命に手を伸ばしていた。
「危ないだろう。池に落ちたらどうするんだ」
 と、愛想の欠片もない声色でウィッカーシャムが注意すると、
「でも、ボールが……」
 少年は振り返り、眉を下げた。
 見れば、池の水面にサッカーボールが浮かんでいる。少年の私物のようだ。うっかり池の中に蹴り入れてしまったのだろうか。そのボールは柵から1メートルほど離れた水の上で漂っている。少年の腕の長さでは、どうやっても届かない。
 すると、
「私がとってやる」
 ウィッカーシャムが柵に片足をかけ、大きく身を乗り出した。
細い腕をボールに向かって伸ばすが、
「くっ……」
 ――届かなかった。
 ウィッカーシャムは顔をしかめ、「くそっ」と小さく呟いた。指先がボールに触れはするのだが、掴むことは厳しそうだ。
 やれやれ、と肩をすくめ、ベンはこっそり自分のΨを発動させた。
 一般人のウィッカーシャムと違い、ベンは特殊な力をもっている。【念力[サイコキネシス]】――自分の視界の中にある物体を自由自在に操れる能力だ。それを利用し、ベンは池の上のボールをゆっくりと動かした。
 サッカーボールはまるでウィッカーシャムの方へ吸い寄せられるかのように水面を漂い、すっぽりと彼の掌に納まった。
 ボールを拾い上げ、水気を切りながら、ウィッカーシャムはきょろきょろと辺りを見渡している。そして、ベンの姿を見つけると、むっと眉をひそめて小さく手招きをした。
「あら、バレちゃった」
 ベンは肩をすくめ、ウィッカーシャムの元へと歩み寄る。「なんで助けたんだ」「Ψがなくとも対処できたのに」くらいの文句が飛んでくることは覚悟しておこう。
 片手を上げて、「おっ、メイちゃん、こんなところで会うなんて奇遇だな」と笑いかけると、
「……ふん」ウィッカーシャムからは冷たい視線が返ってきた。「白々しい奴め」
「なんで俺だってわかったの?」
「わかるに決まっている」
「風の仕業だと思わなかった?」
「逆風だ」
 それは迂闊だったな、とベンは苦笑する。風が吹いた瞬間を狙ってΨを発動させたつもりだったが、風向きまでは計算していなかった。
 ウィッカーシャムは回収したサッカーボールを少年に手渡した。「以後、気をつけろよ」という堅苦しいお説教付きで。
ボールを受け取り、少年は目を輝かせている。
「お兄さん、すごいね! Ψの能力者だったんだ!」
 嬉々として詰め寄る少年の言葉を、
「いや、違う」
 と、ウィッカーシャムは素っ気なく否定した。
「俺はΨをもっていない」隣のベンを指差して言う。「さっきのは、この男のおかげだ」
 少年は「……そうなの?」と眉を下げた。
ベンは苦笑いを浮かべ、横目でウィッカーシャムを見遣る。「ったく、自分の手柄にしときゃいいものを」
「そういうわけにはいかない」
 ウィッカーシャムは即答した。相変わらず真面目というか、馬鹿正直というか。律儀な男だ。
「だから、礼はこの男に言え」
 ウィッカーシャムがこちらを指差して言えば、少年はベンを見上げ、
「ありがとう、おじさん!」
 と、破顔した。
 続けて、ウィッカーシャムにも頭を下げる。
「お兄さんも、助けてくれてありがとう!」
 二人ともに礼を告げると、少年は手を振りながら去っていった。
 その直後、
「――ぷっ」
 隣で噴き出す声が聞こえた。
 見れば、ウィッカーシャムが「お、おじさん……」と呟きながら、腹を抱えて震えている。
 その顔に、ベンは目を丸めた。
 ――珍しい。あのウィッカーシャムが、笑っている。
 いつも無表情で、不愛想で、プライドの高いあの男が、小刻みに震えながら笑っている。そんなに自分がおじさん呼ばわりされたことが可笑しかったのだろうか。たしかに、自分より年下のウィッカーシャムが「お兄さん」で、自分が「おじさん」なのは納得いかないが。
 まあ、そんなことはこの際どうでもいい。
「――おい、どうした」ふと、ウィッカーシャムがベンの顔を見上げ、眉をひそめた。「なにをニヤニヤしている」
「ま、たまには散歩もしてみるもんだと思ってさ」ベンは口の端を上げた。「いいモンが見れた」
「たかがボール相手に苦戦している私の姿が、そんなに面白かったか?」
 フン、と鼻を鳴らし、横目で睨みつけてくるウィッカーシャムに、ベンは苦笑をこぼす。
「いやいや、違うって。誤解だって、メイちゃん」
 ――と、そのとき、仕事用の携帯端末が鳴った。着信だ。出てみれば、捜査局の部下からだった。5番通りのカフェでテロがあるという情報が入り、特殊部隊から制圧に協力してほしいとの要請があった、とのことだった。ベンの能力は犯人の確保時にも大いに役に立つため、こうして現場に借り出されることも多い。「わかった、すぐに向かう」と返事をして、ベンは通信を切った。
「どうした?」と、ウィッカーシャムが尋ねる。
「5番通りでテロがあるらしい」
「なんだと? 情報源はどこだ?」
「麻薬局のロジオノワだよ。プライバシーの都合上、情報提供者は明かせないらしいけどな」
 麻薬局のロジオノワ捜査官は他人の心を読む能力をもっている。彼の情報なら確実だろう。
「まったく、この街は」と、ベンは深いため息をついた。「少しは警察を休ませてくれよなぁ」

    *

 今日は久々のオフだった。
 最近はドラマの撮影が立て込んでいて、ゆっくり過ごす暇もなかった。それだけではない。雑誌のインタビュー、グラビア撮影、バラエティ出演など多忙を極める生活を送っている。だが、それも人気俳優の宿命である。
 露出が増えれば増えるほど、アッシュの人気はうなぎのぼりだった。街灯の大型ビジョンから特大ポスターにいたるまで、今やこの街で彼の顔を見かけない日はないだろう。
 ドラマの撮影が一段落し、今日は久しぶりに休みがとれた。せっかくなのでお気に入りのアパレルショップに行って、新作の服を買い漁ろう、とアッシュは思い立った。買い物はストレス発散にもなる。
 だが、お忍びで出かける際は十分に注意しないといけない。通行人に自分の正体がバレてしまえば、辺り一帯がパニックになるだろう。キャットランド市のスーパースターを一目見ようと大勢の人が押しかけてくるに違いない。
 アッシュは中折れ帽にサングラス、さらにマスクという完全に顔を隠した状態で、街のメインストリートを歩いていた。今日は週末ということもあり、街は活気づいている。この人の多さなら誰も自分に気を向けないだろう。思うままにオフを楽しめそうだ。
 と、そのとき――
「――泥棒よ! 捕まえて!」
 店の中から女の悲鳴が聞こえてきた。数軒先にある宝石店から、男が勢いよく飛び出してくる。
 そのまま男は人混みに紛れ、姿を消してしまった。
 相変わらず物騒な街だな、とアッシュは思った。ここキャットランド市――通称ノラネコシティの治安は最悪だ。いつもどこかで事件が起こっている。
 店の前を通り過ぎようとした、その瞬間――
「――おい、そこのあんた」
 唐突に、誰かがアッシュの尻尾を掴み、呼び止めた。
 いきなり声をかけられ、アッシュの心臓はどくりと跳ね上がった。まさか、自分が芸能人であることを気付かれてしまったのだろうか。これはまずいことになった、と冷や汗が顔に滲む。
 振り返ると、屈強そうな大男が立っていた。ものすごい剣幕でアッシュを睨みつけている。
「うちの店から、商品を盗みやがったな!」
「…………はい?」
 予想もしない展開に、アッシュは目を剥いた。
「犯人はサングラスとマスクをしてた。つまり、お前のことだ」
「ちっ」予想外の嫌疑をかけられ、アッシュはぎょっとした。「違いますよ!」
「じゃあ、なんで顔隠してんだ? あぁ?」
「いや、それは、その……」
 理由を言えるわけがない。こんなところで素顔を晒したら町中がパニックになる。生のアッシュを見ようと大勢のキャットランド市民が押し寄せ、メインストリートが大渋滞になってしまう。
「だっ、だったら!」負けじとアッシュも声を張りあげる。「僕の荷物を調べてみてください! 盗んだものなんて見つからないはずです!」
「んなもん調べて、何の意味があるってんだ。近くにいた仲間にこっそり渡してるかもしれねえだろうが」
 ……たしかに。
 それを言われると、もう何も言い返せない。アッシュが「うっ」と口を噤むと、
「警察が来るまで、こっちでおとなしくしといてもらうからな」
 宝石店の用心棒はアッシュの尻尾を掴み、強く引っ張った。
 

 最悪だ。
 せっかくのオフだというのに、まさか泥棒と間違われてしまうなんて。
 いくら芸能人だろうと、容疑がかかればその対応は一般人と変わらない。捜査官が到着するまで待っていろ、と留置場に押し込まれ、アッシュは途方にくれていた。隣の檻の中では、あきらかに薬物中毒であろう若者が横たわり、意味のわからない言葉をぶつぶつと呟いている。こんな場所、自分には一生縁がないと思っていたのに。
 数時間も監房で待たされた末、ようやく看守の迎えがきた。その後、アッシュが案内されたのは『取調室』だった。狭い室内に、マジックミラーの壁とテーブルがひとつ。アッシュは手錠を掛けられたまま椅子に座らされた。向かい合うようにして、軍服姿の捜査官が腰を下ろす。自分はこれから尋問されるのだろう。刑事ドラマでよく見る光景だな、と思う。
「麻薬局特別捜査官、ブルース・ロジオノワです」
 目の前の捜査官が眼鏡を外しながら名乗った。まだ若い男だ。真面目そうで、初々しさすら感じる。ドラマでは、こういうときは強面のベテラン捜査官が出てくるのが相場なので、少しばかり拍子抜けしてしまう。
 それに、不思議だ。なぜ麻薬局の捜査官が、窃盗事件の容疑者を尋問するのだろうか。アッシュは心の中で首を捻った。
「僕の目を見て、質問に正直に答えてください」
 捜査官の言葉に、アッシュは無言で頷いた。嘘を吐く必要はない。自分は無実なのだから。
「あなたはメインストリートを歩いていましたね?」
「はい」
「宝石店に入りましたか?」
「いいえ」
「なにかを盗みましたか?」
「いいえ」
 すると、
「わかりました」ロジオノワ捜査官が立ちあがり、アッシュに歩み寄った。「貴方を釈放します」
「えっ」
「お時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした」と謝罪しながら、捜査官はアッシュの手錠を外す。
 どういうことだ、とアッシュは目を丸くした。
「……も、もういいんですか?」
「はい。ご迷惑をおかけしました」
 もしかしたら、と思う。もしかしたら、この捜査官は『嘘発見器』のようなΨをもっているのだろうか。
 なにはともあれ、自分が潔白であることをわかってもらえてよかった。アッシュはほっと息を吐いた。
 すると、
「――ひとつ、よろしいですか?」
 ロジオノワ捜査官が口を開いた。
「え、ええ。なんでしょう?」
 まだなにか訊かれるのだろうか、とアッシュが身構えていると、
「サインをいただけますか?」ロジオノワ捜査官が、すこし口元を緩めて言った。「……その、実は、貴方のファンでして」
 なんだ、そんなことか。
「ああ、ありがとうございます」アッシュは笑みを浮かべる。「もちろん、いいですよ」
「申し訳ありません、プライベート中なのに」
「いえいえ、とんでもない」
 警察の取調室の中にいて、プライベートもなにもないだろう。
「この前の映画、すごく面白かったです」
「ありがとうございます」と、アッシュは頭を下げた。「映画、お好きなんですか?」
「まだまだ勉強中ではありますが」
『ブルースさんへ』と名前入りでサインを書き記したところで、
「厚かましいお願いで恐縮なのですが、もう1枚サインをいただいてもよろしいでしょうか?」
 と、ロジオノワ捜査官が遠慮気味に言った。
「ええ、もちろん」
「宛名は『アビーさんへ』でお願いします」
「ご友人の分ですか?」
「麻薬局の先輩です。自分もアッシュさんのサインが欲しかったって、あとでがっかりするかもしれないので、一応……」
「ふふ、ブルースさんは先輩思いなんですね」
 サインを書き終えた、そのときだった。
 突然、アッシュの右目がずきりと痛んだ。Ψが発動したようだ。アッシュの左目は【過去】を、右目はこれから起こる【未来】を視ることができる。
 
 すぐに、頭の中に映像が流れ込んできた。【未来】のヴィジョンだ。

 ――――…………
 5番通りにあるカフェが見える。
 男が立っている。若い男だった。
 男は体中に爆弾を巻きつけていた。
 カフェの客から悲鳴があがる。
 男がなにかを叫んでいる。この世界への恨みつらみ、憤り、それをぶちまけている。
 そして、右手にある起爆スイッチを、押した――瞬間、辺り一帯が炎に包まれた。

 翌日の新聞記事が見える。
 事件が報じられている。

 その見出しには、【自爆テロ 23名死亡】の文字――
 ――――……

「――大丈夫ですか?」
 声をかけられ、アッシュははっと顔を上げた。捜査官が心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「え、ええ」
 頷き、アッシュは顔をしかめた。
 ――今日、この街でテロが起きる。
 知ってしまった以上、放っておくわけにはいかなかった。23人もの犠牲者が出てしまうのだ。
 どうする、とアッシュは自問する。
 ここは軍警本部。彼らに事情を話せば、対応してくれるだろうか。
 いや、正直に話をしたところで、警察が信じてくれるとは限らない。いくら著名人とはいえ、たかが一般人からの根拠のない情報で警察が動いてくれるはずがない。
 だったら、自分たちで何とかするしか――。
 心を決めようとした、そのときだった。
「5番通りのカフェですね、了解しました」
 突然、ロジオノワ捜査官が頷いた。
「えっ」
 なんだって、と目を見開く。
 ――なぜ、そのことを……?
 アッシュは驚いた。まるで自分の心の中を読まれたような気分だった。
いや、まさか、本当に心を読まれてるんじゃ……?
 彼の能力は、もしかして――
「お察しの通りです」
 アッシュが口を開く前に、ロジオノワ捜査官が答えた。 
「ですが、ご安心ください。貴方のプライバシーは遵守いたしますので」
 アッシュを安心させるように、ロジオノワ捜査官は力強い口調で言った。
 その言葉に背中を押され、アッシュも口を開く。「僕のΨのことは、もうご存知なんですね」
「ええ、驚きました。まさか、貴方がそんなΨをもっているなんて」
 と、彼は言うが、驚いたようには見えなかった。感情が顔に出ないタイプなのだろう。
「あとは、我々軍警察にお任せください」 
 アッシュにそう告げると、ロジオノワ捜査官は外していた眼鏡をかけた。

 明日になれば、キャットランド市のスーパースターを警察が誤認逮捕したニュースが街中を駆け巡るだろう。いや、もしかしたら軍警と芸能事務所がそろってマスコミに圧力をかけ、今回の一件を揉み消すかもしれない。事務所としては、無実とはいえ所属俳優が逮捕されたとなれば心象が悪いだろうし、軍警だってこの街のスターを誤認逮捕したとあっては、市民からどんなバッシングを受けるかわからない。
 アッシュが無事に釈放されたときには、もうすでに日が傾きかけていた。せっかくの休みが台無しだったな、と肩を落としながら歩く。
 自然と、足は街の南側へと向かっていた。
 メインストリートから細い路地に入っていくと、薄暗く物騒な景色に変わっていく。風俗店や賭博場など怪しげな店が立ち並ぶ通りに、その酒場はひっそりと店を構えていた。
 バー【Pussycat】――アッシュの行きつけの店である。
『OPEN』の札が掛かっていることを確認し、アッシュは中に入った。「いらっしゃい」といつものように美人店主が出迎える。
「こんばんは、ドーラさん」
 にっこりと微笑み、アッシュはカウンター席に腰かけた。
 店内を見渡し、
「クロは? 来てないんですか?」
 と、首を捻る。いつもこの店に入り浸っている黒猫の姿が、今日は見えない。
「いるわよ」と、ドーラはため息混じりに答えた。
 彼女が指差した方向を見遣れば、テーブル席の長椅子に蹲って眠っている男の姿があった。
「今日はずっとあそこで寝てるわ」
「……羨ましい限りです」
 なにものにも縛られない、自由気ままな生活を送るこの男が羨ましい。とはいえ、セレブな立場を捨てていまさら野良猫生活を始める勇気は、自分にはないのだが。
 それでも、憧れてしまう。街を堂々と歩き、好きなときに休み、自由な生活を送る日々に。
「あら、どうしたの? 疲れた顔してるじゃない」
「……わかります?」
 この程度の疲れを顔に出すなんて、プロ失格だな、とアッシュは心の中で苦笑した。
「なにかあったの?」
「それが、実は――」
 アッシュは今日一日の出来事をドーラに話した。久々のオフだったこと。宝石泥棒に間違われたこと。軍警に拘束され、事情聴取をされたこと。
 アッシュの話を聞き、
「あら、まあ」
 と、ドーラは同情の声をあげた。
「それは災難だったわね」
「ええ、本当に。最悪の一日でしたよ」
 次の瞬間、不意に、アッシュの左目が痛んだ。映像が頭の中に流れ込んでくる。左目ということは、今度は【未来】のヴィジョンだろう。

 ――――……
 見覚えのある店、5番通りにあるカフェが見える。
 男が立っている。以前見たものと同じ、若い男だった。
 男は体中に爆弾を巻きつけていた。
 カフェの客から悲鳴があがる。
 男がなにかを叫んでいる。この世界への恨みつらみ、憤り、それをぶちまけている。
 そして、右手にある起爆スイッチを、押そうとした――が、押せなかった。
 リモコンの形をした起爆スイッチが、突如、犯人の手を離れたのだ。そのまま、リモコンは空中を漂い、カフェの客の方へと移動していく。
 
『これは没収だ』客のひとりが、宙に浮いていた起爆スイッチを取り上げた。『おとなしく降伏しなさい』
 体が大きく、腕にタトゥを入れた男だ。彼は、カフェの客に扮して待機していた軍警察の捜査官だった。
 ――――……

 ふと、店に備え付けられているテレビを見上げる。ニュース番組が流れていた。事件現場からの中継だ。リポーターが5番通りのカフェの前に立ち、原稿を読み上げている。
 自爆テロを企てていた犯人が、無事に逮捕されたらしい。死傷者はゼロだ。
 軍警のおかげだ。犯人を捕まえた大柄な捜査官と、あの若い眼鏡の捜査官にも感謝しなければ。
 休みは潰れたが、23人の命は救われた。
テレビを見つめながら、
「でも、悪くない一日になりました」
と、アッシュは目を細めた。

                

____________________

2016年に『ノラネコシティ』(ビーズログ文庫アリス) という作品を書かせていただきました。その刊行キャンペーン小冊子用のSSを書き下ろしておりましたが、編集部に掲載許可をいただきましたのでこちらで公開いたします。2017年に書いたものでした。
久しぶりに読み返してみて、過去の自分が思ったより上手く書けていたのでちょっとびっくりしました…(笑) 逆に今の自分が全然成長していないような気がして反省したくなりますね。

個人的にとても気に入っている作品ですが、私めの力不足で続編を出せなかったことが本当に悔しく、心残りでした。いつの日かまた彼らの話を書けたらいいなと思います。
個人的にベンが気に入っております。

本編や番外編はこちらのサイトでも試し読みができます。気になった方はぜひ覗いてみてくださいね。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?