【様式美という言葉と出会った。】
仕事をしながら好きなyoutubeを聞き流していたら、”様式美”という言葉が耳に入ってきて、おおおおとなった。
今生の自分にとっては、初めて耳にした言葉だったが、文脈から意味はすぐ分かった。
水戸黄門は、擦ったもんだあった挙句、番組が終わる数分前に印籠が出てきて「ははーっ」となる。
これは、状況は違えど、毎度全く同じ展開なのだが、視聴者はそれを知っているから安心してみていられたり、知っていてなお、それまでのストーリー構成を楽しんだりするのだ。
俺は、それが退屈なものなのだと思っていた。
自分がクリエイター側に立った時、何か全く違った要素を入れなくては飽きられるのではないか、つまらないのではないかと思っていた。まさか、同じであることに”美”があったとは。
思えば、ドラえもんにも、コナンくんにも同じことが言える。
のび太はいつまでたってもドラえもんにすがっているし、
コナンくんはいつまでたっても宿泊先で事件に遭遇する。
ものには”型”があるのだ。
長く続くもののそれには美しさが内在している。
きっとストーリーだけではない。
建築、プロダクト、絵画、音楽、企画。
何をとっても同じことが言えるだろう。
もしかしたら”自分”の中にもそれがあるのかもしれない。自分がもっている様式美を自身が自覚した時に、より一層自分らし区なるのかもしれない。
自分という人間のシステムとか仕組みとか言い換えられるのかもな。
書きながら生まれた考察ゆえにまだ実感が少なく、”かもな”が多かったが、一つわかったのは、山田博揮(自分)という個体は書いていると新たな発見や気づきと出会う様式になっているということだ。
また一つ人生が楽しくなる視点を得た1日だった。