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古代史9 丹波王国が本州統一    継体天皇は蘇我一族

丹後は弥生時代の墳丘墓でも山陰と北陸地方に楔を打つように入りこんで四隅突出型墳丘墓が見られない地域です。この地域に別の民族がいた事は明らかだと思います。そして丹後一宮薦神社には紀元前の前漢時代の2つの鏡が代々受け継がれているのです。この地域に渡来した民族は海部氏と呼ばれ、相当古い家系図があるそうです。この氏族がどこから来たのか定かではありませんが、後に新羅となる半島東部から来た可能性が高いと思っています。半島の東部は秦の始皇帝の時代に苦役に耐えられなかった越の敗残兵が半島に逃げて来た際、西部には既に人が住んでいた為、移送された地だと言われています。この氏族、多分旧越人は鉄の知識が豊富であったことだけは確かだと思います。丹後には扇谷遺跡という近畿地方最古の高地性集落があり、弥生時代前期末ごろから古墳時代まで繁栄していたと言われています。ここで製鉄が行われた痕跡が発見されているのです。また古墳時代末期からは遠所遺跡からたたら製鉄の遺跡が発見されており、こちらは奈良時代まで続いていたそうです。私は本州で鉄を支配し本州をまとめていったのは丹波王国で間違いない思っています。但馬の豊岡・出石を抑え、淡路島への原料供給を止め、製鉄は地元丹後半島で行う、そして3世紀中には丹波王国は出雲王国を凌駕したと思われます。5世紀には大型帆船も導入され、朝鮮半島からの鉄の原料は豊岡を経由せずに若狭湾まで運ばれ、舞鶴や敦賀まで王国は拡大したことでしょう。勿論理由は若狭湾や敦賀湾が安全な停泊に適していたからです。古事記の島生みでは隠岐の島つまり出雲の後は筑紫となっています。でも私は筑紫全部ではなく、海沿いに進み北九州の宗像・沖ノ島ルートを獲得したのではないかと思うのです。筑紫王国は唐津や松浦、平戸あたりへ半島へのルートを変更していったのではないでしょうか。その後、壱岐島、対馬を自らのルートとし、仕上げは佐渡ヶ島つまり越の国も制覇し、その時点での本州支配を完了したと古事記は暗示しているのではないかと思います。

ここで問題はなのは大和王国との関係です。丹波王国は4世紀には新羅などの渡来人と共に敦賀から琵琶湖の北、湖北に進出しました。実は敦賀と湖北は大変近いのです。疋田という所を経由すれば船でも超えられると言われています。湖北には7000年前の縄文時代から弥生時代までずっと日本人が住んでいました。琵琶湖やその周りの山々は大変豊かな自然の恵みをもたらしていたと思います。そこに多くの渡来人が共存するか、支配する形で移り住みました。その中には長浜の製鉄王、息長氏もいたと思います。今も長浜には「たたらの里」があるほどで古代製鉄の地として有名です。丹波王国と尾張一族は祖先を同じくすると言われているので、湖北から不破の関を通って美濃、尾張まで丹波王国は拡大していたのかも知れません。話はかわりますが、私は越前出身とも近江出身とも言われている継体大王こそ丹波王国から生まれたヒーローではないかと思っています。日本書紀ではその前に大和の豪族たちが即位を頼んだのが同じ丹波国ながら今の亀岡市にいた倭彦王です。しかし倭彦王はその依頼を断り、山の中に逃げてしまったというのです。きっと継体天皇に恐れをなしたのでしょうね。但し、大和には古くから多くの氏族が住んでいたわけで、継体大王とは言え大和に入るには相当な努力が必要だったと思います。何しろ纏向遺跡の時代から色々な歴史を経て来た国ですから。継体大王は大和に入る前に大阪の樟葉や京都の京田辺や乙訓に住むことになります。私はここで京都乙訓の近く、葛野に本拠を持っていた秦氏との関係を取り上げてみたいと思います。(下の写真は秦氏の墓と言われる蛇塚です。)

太秦蛇塚

秦氏は3世紀に半島から新羅に邪魔されながらも倭国に渡って来た弓月君の祖先とも言われています。その秦氏はしばらくの間、豊前の宇佐に住んだあと、京都の葛野に移された一族で葛野川(桂川)の整備を担当したと言われています。一般的には名前の響きから機織りに関係した渡来人集団とか貢物の布がうず高く積まれたからこの地が太秦となったとか言われますが、実際は土木や鉱山技術に長けた理科系だったようです。古代から朱砂・水銀(丹生)は防腐剤や化粧の材料として重要で、その水銀精錬を秦氏が担当していたのです。記録では伊予や伊勢での水銀精錬に秦氏が関与していたことも解っています。その他の地域でも秦氏の居場所と水銀遺跡が重なり合うことが多いのです。特に伊勢と京都・深草の秦氏との間での水銀取引で財をなした可能性は高いと言うことです。また数字にも強く、6世紀前半継体大王の息子の宣化・安閑大王の時代に始まる屯倉の設置に際しては各地の徴税吏として派遣されたようです。その為各地に秦氏の末裔がいて一族というより渡来人集団と言われます。秦氏は長岡京や平安京遷都にも大きく関与していたことは有名ですが、大王家との関係は奈良時代から続いていたようで、雅楽で有名な東儀家は元々秦氏で奈良時代から宮廷の雅楽を担当しています。もう一つ面白い話として八幡宇佐宮御託宣集で引用されている豊前風土記によると彼の地の鹿春岳の銅は神鏡用で、鹿春神社の神は新羅神であり、続日本紀ではその神の名は辛国息長大姫大目命としています。(韓国と息長氏というキーワードが入っています。)その鹿春神社(現在は香春神社)の社家は赤染氏と鶴賀氏の両家で、赤染氏は渡来系の赤色の染色を職掌としており秦氏と思われます。鶴賀氏は大加羅国の王子・都怒我阿羅斯等(崇神大王の御代に長門から出雲を経由して敦賀に辿り着いたと言われている)の後裔と言われています。秦氏と丹波王は一体どのような関係なのでしょうか。私は継体大王が大和に入るにあたり秦氏が協力したのではないかと睨んでいます。つまりは旧越人と旧秦人がタッグを組んだ強力な布陣が出来上がったことになります。勿論このころには渡来人とは言え数百年がたっているので最早日本人だとは思いますが。継体大王以降に蘇我氏は蔵を管理する一族となり秦氏はその部下として実務を担当していくのです。尚、ここで引用した秦氏の話は加藤謙吉氏の「渡来氏族の謎」をもとにしています。

実はここからがとんでもない想定なのですが、私はこの丹波王国こそ蘇我一族の王国ではないかと思っているのです。つまり旧越人が日本に渡り蘇我氏となり、日本海沿岸を制覇した後、大和王国に乗り込んだという話です。蘇我氏は渡来人をうまく使っていることから半島系ではないかと言われている一族で、出雲にも蘇我の痕跡があるとも言われています。蘇我一族は4代前までしか詳細が解っていないのですが、大和王国のリーダーになるくらいの一族の過去が解らないというのは非常に不思議です。それも4代前の稲目は大臣でその娘を二人も天皇家に嫁がせているのにです。そして名前も蝦夷とか入鹿とか馬鹿にしたような名前です。蘇我稲目の父・高麗や祖父・韓子に至っては殆ど人種差別状態です。日本書紀は本当なら全面的に蘇我一族を消したいところでしょうが、100年以上大和地方を支配していた一族をそう簡単には消せません。また蘇我石川麻呂など分家も沢山あります。そこで過去は徐々に格下げしてフェードアウトさせることにしたのではないでしょうか。尚、高麗の事績は見当たりませんが、韓子は蘇我韓子宿禰として5世紀に任那に派遣されて戦死したという記録が残っています。下の写真は石舞台で蘇我馬子の墓とも言われています。

石舞台

丹波王国の王が継体大王となるとその後、蘇我大王はいつまで続くかということになりますが、私は安閑・宣化大王までだと思います。この二人の王の期間は合議制の大和王国でなかなか理解が得られず、大王家を担ぐ大和王国の流儀を取り入れ、欽明大王の時代からは皇后を蘇我氏系とし、天皇の義父となり支配体制を構築します。具体的には継体大王と尾張の娘の間に生まれた安閑大王と宣化大王はそれぞれ仁賢大王の娘(母親は違う)を后としたもの豪族たちは納得せず、次の欽明大王からは宣化大王と仁賢大王の娘の間に生まれた石姫皇女を差し入れることで大王家に表向きの大王の地位を渡します。同時に稲目は自分の娘二人を妃として差し入れ、後に大王を三人誕生させることになります。欽明大王は継体大王と手白香皇女の子供と言われているので、引き続き丹波王国の大王に見えますが、私はこの欽明大王が継体大王の子供というのが怪しいと思っています。何しろ継体大王が59歳の時、手白香皇女との間に生まれたと日本書紀には書いてありますが、肝心の手白香皇女の生まれた年も亡くなった年もわかっていないのです。そんなことってあるのでしょうか。手白香皇女の父は仁賢大王、母は雄略大王の娘という高貴な家に生まれたという設定なのにです。私は欽明大王こそ本来の巫女を輩出する大王家出身であったと思うのです。その後、欽明大王は蘇我系の后(息長真手王の娘)との間に敏達大王、蘇我稲目の娘との間に用明大王、崇峻大王、推古大王を生み蘇我王国は大和王国を支配していくことになります。しかし、大王家に尊敬の念を持たない蘇我馬子は言うことを聞かない崇峻大王を排除し、御し易い女性を大王にします。それがご存知の推古大王です。推古大王の御代は35年という異例の長さとなります。その間に馬子から蝦夷と独裁は続き舒明大王、皇極大王の御代にそのピークを迎えることになります。ここで話は少し逸れますが、この舒明大王も少し怪しいのです。日本書紀では皇極大王の亭主で先代の大王ということになっていますが、その父、押坂彦人大兄皇子という人は貴種で父・敏達大王、母・広姫(息長真手王の娘)妻は敏達大王の娘(つまり異母兄弟)です。にも係わらず生年・没年がわかっていないのです。蘇我系でない為に暗殺されたという説もありますが、蘇我憎しの日本書紀なら、それこそ蘇我一族の悪事として書き残すでしょうし、生年・没年がわからない理由はないはずです。何しろ敏達大王の第一皇子だったのですから。私は皇極大王が巫女でその亭主の出自はよくわからなかったのではと睨んでいます。蘇我家は大和王国の古くから続く合議制や大王家は形だけは残したものの実態は推古大王、皇極大王という巫女を祭り上げた独裁体制を強めていったのだと思います。下の写真は蘇我氏の氏寺と言われている飛鳥寺です。

飛鳥寺

それまで大王家を担いて諸豪族の合議制で治めて来た大和王国にとっては蘇我一族の時代は大変酷い時代だったと思われます。そしてついに皇極大王の息子・中大兄皇子は堪忍袋の緖が切れて、蘇我入鹿を斬り殺してしまったのです。しかし、豪族たちに慌てた様子は全くないことから、豪族たちは納得した上でそれまで検討中であった難波への遷都を淡々と進めたのだと思います。流石に暗殺者の皇子を大王にするわけにはいかず巫女の弟の孝徳に大和の大王となってもらい、あたらに評を設置し全国統治への地ならしを始めたわけです。その際、役にたったのは皮肉にも安閑・宣化大王の時代に一部九州を残し関東以西を制覇して設置した屯倉だったのです。具体的には東は上総、武蔵、上毛野、駿河などに屯倉が出来、西は九州筑紫、豊国、肥国に及んでいます。日本書紀には殆ど逸話もなく、御代も3年ずつといい加減な記述となっている宣化・安閑大王の時期こそ本当は国家統一への大事な時期だったのにも拘らずです。

 


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