ゴミを拾いながら考えていた

被害を明確にするのはいい。加害も明確にしないと死ぬまで自分と向き合えないだろうと思っている、これは特に脱会を含めた一世に思う。便乗して被害者面をしているけどコントロールされて加害しました、じゃない。ならば死ねと指示されたら死んだのか?子供の時からこの流れを見て脱けたらまるで本質に気づいて脱けたという謎な成功体験みたいなようなものを感じるんだが、いやいやいや入信したパターンと何が違う?
でも誰もそれは言ってくれないだろうとも想像するよ。きっと「そう言ってくれたであろう」人を切ったか、作れる可能性を切ったかはあるだろうし当事者だけで群れたらなおさら見えないんだろうと察する。

いじめの見て見ぬフリも加害に加担したのなら全員そうだろう。被害を受けたと言う人に的外れな言葉を浴びせるのも論外だ。
家庭の範疇には留まらず子供の精神をいじくり倒し今や被害を受けましたと叫んでいる。

脱会者たちに会って団体に向けて書き込んでる横顔は忘れない。笑ってたんだからな。復讐心は苦しさを一時的に緩和させるので共感する部分は確かにあるんだが復讐が楽しくて笑顔になるくらいにはイカれてんだなと思った。信者たちのその顔も家庭内で見たが同じ顔してるんだよ、笑ってるんだ腑を沸えくり返しながらな。復讐の副作用は早いうちに感じておくのがいいとは思うが楽しいからしゃあないか。

何が「いい人」だ。犯罪で捕まると近所の人だいたいそんなコメントするじゃん。二世も加害者のフェーズに突入してると知りながら書くけど、自分が道に捨てたゴミくらい自分で拾えよ

透明な当事者の場所のために使います