ひとりの変化で世界は変わるのか
こんにちは。
世界にはみんなで解決しなきゃならない問題がたっくさんあるように思えます。
僕が最近気になっている環境問題も、そのひとつ。
環境問題にもいろいろありますが、今日はその一部について書きながら考えていきます。
環境問題のようなとてつもなく大きな事柄に、我々ひとりひとりはどう向き合えるのか。
大きなシステムの中で、ひとりの変化は微々たるものだろうけれど、それでも意味はあるのか。
こんなことを、僕はあーでもないこーでもないと考えたりします。
古着屋さんに行くこと
一昨年くらいから、よく古着屋さんに行くようになりました。
最初は、新品では手の届かない価格の服が、普通に問題ない状態で安く手に入る、それくらいの理由で行っていました。
ところが、大学のある課題でファストファッションに関する小論文を書くことになり、いろいろ知ってそこから意識が大きく変わりました。
何より驚いたことは、英国では生産された服の約3割が廃棄されているということでした。もちろん去年も、今年も、ほぼ確実に来年も。毎年です。
(気になったので日本の数字も調べてみると、年間約100万トンでこれは約30億着以上に相当するらしいです。)
この事実を知り、ファストファッションブランドの商品を買うことはほとんどなくなりました。ロンドンにいる間も、日本にいる時も、ほとんどの服や靴は古着屋で揃えています。
ファストファッションブランドの商品を買うことは、シビアに見れば、そういった大量生産・大量消費の仕組みとそれに伴う大量廃棄を自ら追認することだと感じるからです。
たったひとりの些細な変化
ここまでの話で勘違いしてほしくないのですが、別に「ファストファッションブランドの商品を買うな」とかそういうことを言いたいわけではありません。
(僕も今でもユニクロは便利すぎてちょくちょく行くし、下着はさすがにセカンドハンドは嫌だから新品を買っています。)
環境問題に本気で取り組みたいのであれば、他にもっと効果的にできることがいくらでもある。
でも、そうやって知っている問題すべてに当事者意識を持ち、真摯に向き合おうとするには、僕たちの”世界”は広がりすぎていて、また僕たちは知らされすぎているかもしれません。
ある事柄に限って向き合うとしたって、システムの力はとても大きいことがほとんどでひとりのあなたに起こせる変化はたかが知れているようにも思えます。(特別優秀な人は違うかもしれないけど、、。)
じゃあ、たったひとりの僕たちにできることは何もないのでしょうか。
夏場のエアコンの設定温度を28℃より下げないこと、エコバッグを使うこと、年に一度だけゴミ拾いのボランティアに参加すること。これらは各論で考えれば素晴らしいけれど、総論になれば意味をほとんどなさないのか。
これに対する答えは僕にはまだはっきりとはわかりません。
大学のファストファッションの課題を出した先生は、
「私は私の小さな行いが大きな変化につながるのかわからないけれど、つながると信じて、自分にできることをやるようにしている」
と話しました。
矛盾を抱えている、のか?
さっきの問いに戻ります。
今の時点での僕の答えは、「自分が当事者意識を持てる事柄にはきちんと向き合って、そして誰の目にも止まらないような変化でもいいから、変化を起こせる機会があればそれを生かしたい」、そんな感じです。
その理由が、何かはよくわかりません。
社会の変化につながるという希望を持てるからなのかもしれないし、何もしていないよりはマシだと思うからかもしれません。
「システムの中で見れば些細すぎる変化」だと自ら感じながらも、その変化を起こしたいと思っている。
これは、「世界をよりよい場所にできるかどうか」という基準で考えると矛盾が生じているようにも見えます。
もしかすると、「世界をよりよい場所にできるかどうか」ということに僕自身あまり興味がないのかもしれません。
じゃあ僕は何を大事にして、何にこだわって日々決断を下し、生きているのか。
こういうことが気になるので、いろいろ勉強したり考えていると、全部最初っから決められている決定論みたいな話や、自分が決めたと思っていることも実はほとんど社会によって規定されているみたい話にも出会う。
ちょっと突飛すぎて実感がわかないこともあるけど、あながち否定しきれないところもあったりして、面白い。
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