9月入学についてーー日常を考えるーー


 9月入学。ここに来てマスメディアの表現が変化してきている。
 例えば当初SNSの運動を通じて呼びかけを行った人々に対し、「一部の」と言った限定的な表現をしたり、運動が高校生により発露されたとの事実を積極的に報道し、その後に教育界の各学会各派が批判し、9月入学に否定的な高校生の意見を採り上げるなど、その伝達様式において若干の姿勢変化が見うけられる。
 
  この事自体は、特に問題ではない。なぜならこの状況下において議論を重ねてきた結果、さまざまな実務上の問題点が顕在化されたからだ。従って、報道の論調が変化するのは当然である。事実、東京都知事も当初の勢いとは異なったニュアンスで語り、首相の発言も明らかにトーンダウンした。そして報道でもそう伝えている。
  
 では何が問題であろうか。現在、全国に出されていた緊急事態宣言が解除され、人々は日常を取り戻そうと努力している。そして事実そうしなければ、社会は成り立たない。ではその日常とは何なのか、それを考察しなければならない。
 
 重要な問題は私たちが知っている日常をコロナ禍を起点としてその前後に区分けするのか、あるいはコロナ禍も含めて過去から未来に向けて継続する日常として考えるのか、と言う点である。仮に後者であれば、その日常は現在進行形で継続された不確定な連続性の中にあり、特異点であったコロナ禍は連続性の中に吸収され稀釈される。したがって、我々が知っている日常は過去から現在そして未来へと直線的に流れる。
 
 ではコロナ禍を分水嶺とした場合、我々はどのような時間軸を想定するのであろうか。古代ヘレニズムでは時間は円環するとされていた。つまり、何らかの事象を起点とした変化が連続的に発生した場合、それぞれの変化と変化後の関係が最終的には円環するという考え方である。対してヘブライズムは時間の直進性を唱えている。時間は不可逆性を備え、ある事象の先から過去へ戻ることはなく、直線的に最終的な事象の終末まで進み続けるとしている(真木 2003:時間の比較社会学)。

 現在の私たちがおかれている状況は未だ連続的な変化の過程と言える。今後、さまざまな不確定要素が私たちに連続的に訪れることは自明である。豪雨の禍、猛暑の禍、人による禍、それらは何の連関性もなくまったくランダムに我々のまえに姿を現す。そしてコロナ禍も第2波が想定されているなど、私たちは常に不確定な連続性のなかに生きている。そうだとすれば私たちの日常は円環する時間の中に存在していると解したほうが、また精神的にはゆとりが持てるのではないか。直進する時間はやがて終末へと突き進む。それはむき出しの資本主義の果てに環境が破壊され、全てが終わってしまう世界すら連想させる。
 
 9月入学というミニマムな変化も連続的な変化の過程であると考えるなら、教育の変化もまた円環していくのではないだろうか。日本の教育は寺子屋から始まり、個々の学びは独立していたとされる。明治では9月入学もあり、じつに色彩豊かな教育環境でもあった。もちろん教育の平等性という観点では問題もあったであろう。しかし、それらも連続的な変化によって現在の制度に変わっていった。であるとするならば、現在の制度もまた変わりうるものではないか。教育の変化に対して時間の直進性のみを求めず、変化の連続性から来る時間の円環を目指す事は、我々にゆとりを与えてくれるかもしれない。今、9月入学の是非は多いに議論すべきだ、しかし同時に今起こりうるの変化の可能性を受入れる度量を失えば、それは結果的に未来への希望をも閉ざしてしまう。

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ようやく全国の緊急事態が解除された。前代未聞の学校閉鎖から始まった第1次コロナ禍は、教育の改革をも巻き込んで今も進行中である。今までの時間は何を意味するのか。そして新しい生活様式の本質とはなんなのか。まもなく75年を迎えるあの「前・後」は、これから我々が暮らす2020年以降の日本国と何か関連があるのか。今後も考え続けたい。

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