収束の先

 感染が収束した頃にはすっかり変わってしまった世の中が見られることかもしれない。あるいはあまり変わらないかもしれない。

 でもその中にあって変わるものと変わらないものがより明確化されているかもしれない。例えば、学校や受験制度も大きく変わるだろう。でも学ぶ意欲とその意味は変わらないと思う。働き方も大きく変わるかもしれない。でも働く本質、誰かのために自分か働くという事は変わらないと思う。生きていく事は変わらない。でも生きる意味そのものの生きがいを何に置くかは変わると思う。それは自分でも良いし、家族でも良い、あるいは他人でも、人間以外の存在でも良い。何に生きがいを求めるかはこれから重要なテーマとなるだろう。

 不確定な要素がこれから連続的に発生する。日本には台風もあれば、地震もある。なにもウイルスだけが脅威なのでは無い。絶望的な状況はこれからもしばらく続くであろう。では、それははたして絶望なのか。絶望とは時間をさかのぼった連続性のなかでしか体感し得ない。だとすれば、今までの時間軸で考えるかぎりにおいては、それは絶望と等価関係であろう。

 しかし、今を変化の過渡期として捉えたとき、未来は希望という時間軸で展望することができる。今までの時間軸で築き上げた将来の展望を否定することは間違ったことでは無い。今まで正しとされていた事が、これからは誤った事となるかもしれないという事になるだけだ。この価値観の反転を日本人は既に75年前に体験している。今までの価値が反転して新しい価値が生まれ、それに適応してきた歴史を知っているはずである。

 今を耐えるという発想から、今を受け流してこれからの準備期間とする発想が必要であろう。

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