給付する側とされる側
10万円の給付について以下投稿を見て頂き、その上で私の私見を述べてみます。
「なぜ10万円給付に時間がかかるのか」https://note.com/politic/n/n445ebc670a87
上記の内容から様々なプロセスを経て給付がなされる事は理解できます。異常に複雑なプロセスに至る原因が「二重給付」を抑止する事「特別な配慮を要する人」への対応を中心に多岐にわたる事も読み取れました。
ただ、それはあくまでも給付する側の論理であって、想定する様々な状況は、給付する側が「想定しうる範囲の状況」から抜け出せていないのではないでしょうか。給付される側の視点に立つと違った視界が開けるはずです。
現実に給付される側の状況は、する側の想定を遥かに超えてしまっている。その事が給付する側の立場にいると見えなくなってしまう。あるいは、見えていても統一的な処理を行う事を前提としている以上、無理やり状況を当てはめようとしているのではないでしょうか。
この手の議論すると、人員の問題と時間の問題、あるいは公平性の問題に議論がすり変わってしまい、肝心の給付される側の意見が議論の過程で阻却されてしまいます。なぜなら、それは給付する側の中で議論されるからです。
では視点を変えてみてはどうでしょう。住民基本台帳に記載されてる人イコール給付金の総額と考え、方法の如何を問わず申請者に全て給付する。「二重給付」と「特別な配慮」は想定に入れない。ただし、それらに関しては後日十分な追跡を行う。
給付前のシステム構築と確認に時間と人員のリソースを割くより、給付後の補足にリソースを割く。支給にあたっては給付される側の意図を最大にし、給付する側の理論を最小化する。そして、給付する側の理論と給付される側の意図(申請と言う行為)に不一致が生じた場合、それを徹底的に補足する。
このように考えれば給付される側が持つ無数の意図をすくい上げる事ができます。誤解しないで頂きたい事は、この手の議論でよく見られる性善説の議論ではない事です。自治体は総額を把握しているでしょう。その事だけに意識を向け、その額の上限からの差異に注意を払うべきです。なぜなら、そこからの差異には何らかの矛盾が含まれているからです。その矛盾こそが給付される側の意図と給付する側の理論の不一致です。そこを事後しっかり追及する。
今回のように、あるいは毎回の事の様に、行政上の特異なイベントは行政側の都合と市民側の事情とが対立します。その際、お互いの中に「理解不能」な理論の対立が生じます。それは仕方がないことなのですが、問題はその時にどちらの理論を最大にするかです。私の意見は市民側の理論を最大にしつつ、それが行政側の理論と矛盾する場合は、事後にその精査を行うと言う立場です。
いずれにしても行政側の苦労は察するに余りあるものを感じます。近所の市役所もゴールデンウイーク(ガマンウイークとも言われましたが)に連日出勤し、おそらくは給付金対応のされていたのでしょう。本当に感謝ですと締めくくり、私の意見を結びたいと思います。
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