そうそう、そう言えば

たった今、テレビで純金のCMをやっていてキンキラキンのご仏像が…、昨日の自分の記事に繋がった。
以前にお釈迦さまもイエスさまもきらびやかな物をお好みにならない、むしろ、そんな物とは無縁のお方だと。なのに人は何千年も前からきらびやかな寺院や教会を建ててきた。
現代とは違って全てが人の手で造られた。そこでは想像もつかない程大変な犠牲を払い、人の命も失われたであろうに違いない。(と、このようなことを書いた)
ブッダもイエスも望まれないのに、して差し上げたい…という、人の強い思いが込められているのだろう。
そして神や仏が人間に(私たちに)お求めになっている事は、少しも理解には至らない。現代に至るまでも。
未だに戦争をしている宗教(信者)も、親子という小さな単位でも気づかずにいる。
自分たちの解釈や思いに突き動かされているのだ。神がお望みになるわけがない。(重ねてイエスもブッダも、もしかしたらよくは知らないがアッラーも、入り口が違う、到達への道筋も違うけれど、同じ所へ行き着くのだと思っている。何なら神さま、仏さまと呼ばずに、大自然さまと呼べば良い)
そんなふうに、人は自分がやってあげたいことをする。
やってあげるのだから「悪いわけがない」という盲信に突き動かされているのだろう。しかも、この国の教育や躾がまさに盲信している。
〈自分を低くし、他者を思いやる〉
自分がして欲しい事をしてもらった経験があって、他者にもしてあげられるように出来ているのに…。
なので、してあげるのは、親であって、教えるのが親になっている。親が自分の子どもにたくさんの〈本人が求めていることをしてあげる〉という体験を与えることで、その子は他者にしてあげる。自然に…当たり前のように…。
そして、それは自分がしてあげたいことであっては、かけ違いが起きてくる。子が望んでいること、抱っこー!痛かったー!「ヨシヨシ、大丈夫?」「嫌だったー!」「そうかそうか、嫌だったのか」と。自然なやり取り。「抱っこー!」「自分で歩きなさい」「痛かったー!」「大丈夫、大したことない」「嫌だったー!」「そんなこと言わないの!」これで、人には優しくと教えられてもねー!
実は私がそうしていた事にきづいた一人だ。よく親子の難題を〈チョッとしたボタンのかけ違い〉などと言うが、それはこのことだと思っている。気づく前はあんなにしてあげたのに…と思っていた。そう、してあげたい事をたくさんして、自分はこんなにしてあげている。と思っていた。受ける側は不満と罪悪感を味わっていただろう。

【スーパーで見た光景】にも同じ事を書いていたのだ。同じ事を違う角度から書いて来ただけでした。

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