大学生活でボッチだったことについて

 大学生活で、僕はボッチだった。いや、正確にいうと友達は一人だけいたのだけど、彼は高校時代からの友人だったので、大学からと考えるとボッチである。実は、一年生の前期まではそこそこ友人がいたのだけど、時間が過ぎるにつれて、一人また一人と僕の前から姿を消した。基本的にここで残った人が友人になると、大学経験者は語るのだが、僕には一人も残らなかった。つまり、「誰とも気が合わなかった」のだ。紛れもない社会不適合者である。
 というか、今思い返すと胸を張って友人だと言える人などほとんどいなかった。中学高校であれば、基本的に友達グループに所属する人が多いと思う。僕は所属したことがないのだが。仲良し組!みたいなのに入れた試しがない。集団で遊びにいった経験など本当にない。ただ極少数の人と深い仲という訳でもない。旅行に行けるレベルの友達など本当にいないのだから。深いところまで思い返すと、小学生の時もそうだったように思う。いつの時代も、どんな時も、基本的にはハブられていた。1人少数派だった。
 ただ、ここまで来ると別にそういうグループに入りたくなくなってくるのだ。それは、酸っぱいぶどうのキツネではない。諦めだ。純粋な諦めだ。僕にはそういう、何となくきらきらした感じのものは一生手に入れられないと悟ったのだ。グズな僕でもその程度の知性はあった。ちなみに、部活に入ってもこれは改善されない。僕がいないときの部の雰囲気は非常に良かった。たった10何人の部活であるにも関わらずだ。僕こそが正真正銘どこに出しても恥ずかしい、まごうことなき異分子だ。ありとあらゆる組織において、何となく浮いているのが僕だ。
 ここで、僕が和を乱すような動きを積極的に取っていたり、自己中心的に乱暴に振る舞っていたんだと思う人は多いだろう。だけど、そういうのではない。なんとなく浮いているのだ。本当になんとなく浮いている。多分、僕の意識しない間に、僕は和を乱すような動きをしているのだろうと思う。そう感じるくらいに何となく浮くのだ。どんな集団に所属したとしても。
ただ、この浮き具合にも差があると最近気付いた。差異は集団凝集性にある。集団の成員間の凝集性が高ければ高いほど僕は浮く。多分、凝集性が低い集団は、全員がボッチに近い状態だからだろう。より集団として磨きをかけていくと僕は排除されるのだ。
 集団はさておき、個々人ではどうか、と言われるとこれは案外上手くいく。深い話は出来ないけれど、天気の話くらいは普通にできる。基本誰とでもできる。ただ、深い話は絶対にできない。そこまで人と仲良くなれない。きっと、薄い壁のようなものがあるのだろうと思う。
 色々書いたが、正直友達が作れるなら作ったほうがいいと思う。特に大学生活の質は友達の量や質に大きく左右されると思うからだ。友人と遊ぶ楽しさもそうだが、何より複数人で大学生活を送ることで、リスク回避が可能となり、落単の可能性が大きく減る。また、それ以上に僕のようにボッチだと大学生活の記憶が残らない。今の僕に大学生活の記憶はほとんどない。生きてたか怪しい。大学生活を人間として送るのであれば友人は必須なのだ。
 およそ生涯を通じて人と深く関わらないであろう僕の今の最大の懸案事項は「結婚式に呼ばれるかどうか」だ。多分呼ばれない。なぜなら僕を呼ぶような人間がこの世にいないからだ。ただ、社会生活を送る上で、結婚式に行ったことがあるというのは、当たり前のステータスだ。結婚式に行ったことがないとバレてしまうとヤバイ奴だと思われかねない。事実ヤバイ奴ではあるけれど。
 つまり、結論としては、大学では何としてでもそこそこの友人を獲得する必要があるのだ。これから大学生活を送ろうとする人たちは血反吐を吐いてでも友達を作るようおすすめする。僕は血反吐を吐くくらいならぼっちでも構わないけど。

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