弔うこと
友人の葬儀に出た。友人と呼んでいいのかもわからないけれど、私は彼のことを友人だと思っていた。
留学中にできた、仲の良い友人のお兄さん。一個歳上で、家族が避難してタイに来た中、戦地にいて、内戦下で兵士をしていること。聡明で、まっすぐな目をしていて、英語が流暢で、クーデター前には大学に通っていたこと。私が知っているのはそれだけだった。
友人に話して!と言われるまま、電話越しに何度か話していた。
回線の都合でうまく話せなくて切ってしまったけど、あの時君が聞いてくれた日本に関する質問の答えを、次に話す時には話そうと思っていた。
日本に行きたいな、と言った彼に、日本の美しい景色の話をして、ぜひ家族で来てほしいと言ったときの、遠い目を、”It’s my dream……”と言った言葉を、なんとなく忘れられずにいた。
話した機会は数回だったけれど、間違いなく、留学生活で1番印象的な出会いだった。私の関心を、希望進路を揺るがすほどに。私は単純で平和ボケした大学生だから、銃声を、戦地の夜の暗さを、電話越しながら見たことが、自分ごとの中に入れたことが初めてで、衝撃だった。
私はうまく言葉が紡げなくて、ご愁傷様です、も、悲しいということも、なんにも伝わらない。私が使える彼らの言葉は、「ありがとう」「これは何?」「私は日本人だよ」「元気ですか?」それだけだから。
私はどうしようもなく無力で、それは彼らと生きたいと願いながら、怠けてきた己のせいのように思った。悔しかった。
自分たちの暮らしも不安定だろうに、1人でこの街に来た私を、まるで家族のようにいつも受け入れて、ご飯を作り、笑いかけ、一緒に散歩してくれるのに。いつか故郷においで、と言ってくれる彼らに、どれだけ救われていたか。なのに。私には黙ることしか、ただ黙って手を取ることしかできないんだ。それがどうしようもなくかなしくて。くやしくて。
故郷では、葬儀の際は、故人の近くに集まり、2・3日の間は家で夜通し歌を歌い、語り合い、チキンスープを食べるらしい。一緒に葬儀に出た友人は、できればここで夜を明かしたいなあと言った。そのような弔いをできない異国での暮らしは、彼の身体は、故郷の地は。なんだかなあ、なんだかなあ。
葬儀では私の知らない彼のことが友人らの口から語られた。直接的に彼を知らない人たちも駆けつけていた。戦地の仲間らと思われる人たちの動画と共に聖歌を歌った。
私には悲しむ資格なんてない。ただ、もう少し話したかったんだ。無邪気にも、話せると思っていたんだ。
言葉を尽くしても何にもならないし、自己満足でしかない。決して彼らを教材のように思いたくない。君は、君で。
彼らと同郷のクラスメイトに以前、「僕らは同じクラスにいても決して同じではない。生まれてきた時から立場が違う」と言われた。できることが違う。背景にあるものが違う。生きづらさが違う。かなしくて、否定できなくて、けれど私は君の優しいところが結構好きで、友人家族の笑顔が好きで、そういうのじゃだめなのかな。あなたの暮らしを祈り方を服を食事を美しいと知りたいと思って、ぼくら、そうじゃだめなのかな。
日本にもいっぱい問題はあるんだよ、けど、そうだね、わからないや。
このことを、気持ちを、89歳の祖母に電話越しで話した。家族を周囲を戦地で亡くしたこと、疎開していた頃のこと。そうした過去のことを祖母から聞くことが私は好きで、アルバムを見ながらこれまでも時々聞いていた。あんたは感受性が強いからねえ、と言いながら話してくれた今回の祖母の話は、これまで聞いていたものとは違って聞こえた。戦争は自分と関係のない物語ではなく、今の私と地続きな場所にあることを、ようやく理解した。死の匂いが日常になること。争うこと。もう慣れた、と言っていたこと。
残された留学期間もあとわずか。きっと今生の別れになる人の方が多いんだろう。色々な立場で戦場に帰っていく人も何度か見送った。
この留学期間中に、日本で大切な存在が亡くなった。病気の知らせを聞いてから、私は酷く取り乱して、美しい景色を見ながら日がなぼんやりと泣いてばかりいて、結局葬儀のため一時帰国をした。きっと、これ以上辛いことはなかなかないように思った。大切な存在が苦しいとき、そばにいられないことがこんなに張りちぎれそうになることを初めて知った。どんなに美しい景色も空も海も、大切な存在の隣には敵わないのだと思った。旅をすることが、外に出ることが怖くなった。誰からも離れたくないと思った。と同時に、思い立ったらその日に帰国できる私の裕福さを、立場を、甘さを、周りと比べてなんだか恥ずかしい気持ちにもなったのだった。
大切な存在を見送ることはいつも辛い。死は怖い。慣れる様子はない。私はまだよわい。
留学して、いろんな場所を旅した。いろんな境遇の人に出会った。出会った場所、人、ひとつひとつに大切な思い出ができた。私は無力だと知った。願わくば、ずっと健やかであれ、と、祈ることしかできなくて。
葬儀場はむせかえるような甘い花の匂いがした。祖父の葬儀のときもそうだったな、とふと思った。こんなところは何千キロ離れていても変わらないらしい。
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