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旅行記 

東尋坊に行くための旅をした。延び延びになっていたのでようやく行けてよかった。
東尋坊に夕暮れを見に行くことだけは真っ先に決まっていて、そのほかはほとんど決まっていなかった。

深夜、ぼんやりと集まり、東京を出た。夜行バスはどうも男女でだいたいの座席が分けられているらしい。初めて友人と夜行バスに乗るものだから少し緊張し、何度も目覚めてしまった。
早朝、福井に着く。想像より暑い。福井は城を中心に機能が集まっているようで、地図上の配置が美しかった。博物館や庭園が見ごたえがあり、かなりの時間をそこで過ごす。
ヨーロッパ軒のカツ丼を食べ、えちぜん鉄道で温泉地へ向かった。田園風景が続く車窓。

温泉地に着くころにはもう夕暮れ時だった。一日中歩き疲れ、宿についてからごろごろとしていると日没が近づき、慌てて宿を出る。東尋坊に行きたいんですけれど、と駅員の方に尋ねると、もう暗くなるし危ないからよしておきな、朝にまた来た方がいい、と随分と止められた。が、東尋坊の夕陽を見ることがこの旅の目的なのだから、朝に来てもあまり意味がない。
バスは時間が合わず、自転車は坂が多いので不向きとのことだったので、えちぜん鉄道に乗ってひとまず港を目指し、行けそうなら歩いて東尋坊を目指してみよう、ということにする。必ず帰ってきますよね?と確認を受け、まあ宿を取っていますし……と頷くと、往復切符を手渡され、港で見る夕陽もきっと綺麗ですよ、と送り出された。

面倒くさがって財布と携帯以外ほとんどなにも持っていなかったからか、どうにも陰の残る集団だったのか、集団自殺を図っていると思われたのではないか、という話題になった。大学生の集団自殺。
まあ行ってみたら死にたくなるかもしれないしね、と笑いながら、港に向かう。

港は西日に照らされ、確かに綺麗だった。釣り人の姿が影になっていて、海鳥の声と合わせて情緒があるなあと感じたのを覚えている。駅舎の待合室には、数か月前の探し人が掲示されていた。多分飛び込みに来たんだろうな、生きていたとしてもこの人が家族のもとに帰ることはあるのかな、とぼんやりと思う。
15分ほど待つと東尋坊へ向かうバスが来た。降りるときに運転手に「サヨナラ」って小声で言ってみようよ、なんて悪趣味な思い付きをするけれど、結局誰も実行しなかった。帰りのバスは残り1本、最終になるので乗り遅れないように、と告げられる。

日没が近づいた東尋坊前は閑散としていた。土産物屋はすべて閉まり、家族連れは帰り道を急いでいる。崖の方に向かうと、ロマンチックな情景を見に来たカップルや、日没を撮りに来たカメラマン、私たちのような若者の集団がちらほらと点在していて、思っていたよりも人目があった。
自殺には人目のない方の崖の方がよく選ばれるらしい。奥に向かうと、それらしい場所があった。いのちの電話が西日に照らされている。眼前にはきらめく海と空。雲一つない日で、太陽が水平線に吸い込まれて行く様がよく見える。眼下には荒々しい波と岩。一歩踏み外すと落っこちてしまいそう。ここで死ぬときは、海に落ちること自体による死ではなく、岩にぶつかった衝撃によるものなんだろう。

空と海はどこまでも綺麗だった。水平線、という言葉がよく合う、空と海しかない景色。

病床で一人天井の壁を眺めながら命を引き取るのと、こんなに美しい景色を最期の記憶として自分の命の終わりを自分で決めること、どちらが幸福なのだろうとぼんやりと思った。ちょうどその日の昼間、84歳の誕生日を電話で祝った祖母より先に死ぬことはできないので、死なないけど。
けれど、こんなに美しい世界が最後に見た景色になるのなら、死ぬのもやぶさかではないのかもしれない。
今生きているこの世界が、長い長い夢だったらばどうしよう。

光の尾を残してそのまま沈んでいく太陽と、夜の青と昼の青とが混ざり合う空と、ひかりかがやく海とを、並んでずっと見つめていた。
大学を卒業したら彼らとこうしてごくたまに集まることもなくなり、誰かが死んだとしても知ることもないのかな。なんとなくそう思った。
そうだったら少し寂しいな。

昨年夏の下書き供養


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