図書館
最近夢として「いつか自分の図書館を持つこと」というものを言葉にできるようになってきた。
言葉にしていれば、それが本当に輪郭を持った夢として立ち現れてくるような気がしたから。そしてそれは、割合いろいろな人に面白がって捉えていただけるらしい。現実味のない、夢語りだと馬鹿にされると思っていた。
いつか自分の図書館を持つこと。図書館でなくていい。古本屋、書店、ふらりと寄れる近所の魔女の家。ブックカフェみたいなのはいやだな。入りたいときに入れないから。お金がないと寄り付けないのは、ちがう。
しゃん、と背筋を伸ばした老婦人でありたい。黒いシンプルなワンピースが似合うひと。時々スカーフを巻いて、アクセサリーをつけて、ビビッドな色のベルトを巻いて出かけるひと。よくものを知り、季節のうつろいに敏感で、庭で畑仕事をして過ごしている、祖母のようなひとに。そんな老婦人が営む、小さな小さな本との出会いの場があれば、きっと素敵だと思うのです。ぽおん、ぽおん、と鳴る壁掛け時計と、木を基調にした穏やかな室内。BSでポアロさんを観る、生ぬるくて穏やかな平日の昼下がりのような……
先日帰省した際に寄った、東吉野村にある私設図書館ルチャ・リブロさん。あれは理想かもしれないな……
わたしの日々はくるくると廻っている。知りたいことは世界に溢れていて、ひとの話、特におじい様おばあ様方のお話を聞くことが大好き。読みたい本。行きたい場所。やってみたいこと。作ってみたい料理。そうしたキラキラ輝く好奇心の粒の源泉は、幼少期の読書体験なのだと思う。しあわせなことに何人もの恩師に恵まれて、たくさんの世界と出会うことができた。父方の祖父は体験を、母方の祖父は書物を与えてくれた。同年代のひとびとの輪に溶け込むことが極度に苦手でこわかった頃も、自分を形成することができたのは、きっと出会いがあったからだと思うから。
私が、次のひとに向けて好奇心の種を蒔くことができたら。
私は場でありたいと常々思っている。私という存在が形を持たない場であれたら。凪いだ湖畔にある宿り木のような存在であれたらいいのに。ここで息継ぎをして、回復して、そして飛び立っていってくれ。とても傲慢な感情。そう思うには私の日々は忙しなすぎて、余裕がなく、くるくると目が回りそうになる。自分のケアをするのに手いっぱいで、ひとのケアに手が回りそうにもない。けれど、けれど、
余暇しかない日々を慈しんでいたい。手仕事は欠かしたくないし、料理は私を私にしてくれる。私の機嫌は私が取るものですから。私の感情の手綱は私が握っているのですから。そんな柔らかなつよさを持ってはじめて、私は誰かの場になれるのだと思う。つよくなりたい。うつくしくありたい。
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