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先生とは

先生からこんな言葉を聞きました。
「それじゃあ、子供が可哀想だよ。」
そうなんでしょうか?という思いに駆られたので書いてます。

 先生の立場で「子供が可哀想。」というのはその先生がそう思っているだけの場合はありませんか?「コロナで修学旅行に行けなくて可哀想。」「運動会で上手に演技できなくて可哀想。」「塾に毎日行かせられて可哀想。」
 修学旅行に行って楽しい思い出がある人から見たら…運動会で活躍した人から見たら…塾に行かずとも勉強ができ余暇時間で友情を深める経験ができた人から見たら…
 先生たちはある意味「学校」という社会に馴染め、学校という社会で正の経験をしてきた人が多いのではないでしょうか?だから、学校という社会での正の経験ができないなんて、可哀想となるのでしょう。学校での経験を否定したいわけではなくて、すべての子供が学校での正の経験ができるわけではないし、その経験がすべての子供の将来に必要なのかという点に疑問なのです。
 個人的には正の経験(楽しい嬉しい、成功体験)も負の経験(悔しい悲しい、失敗体験)も人生には必要だと思います。必要のない経験はないと思っています。

ここで2点
①正の経験、負の経験、両方を経験するから判断ができるようになる。
②可哀想かどうかは子供(本人)が判断する。
のでは、と仮定しています。

 とすると「コロナで修学旅行に行けない。」のは、修学旅行という経験ができなかったことが可哀想だけど、その準備期間や活動時間を他の時間にあてている、何か別のことをやる時間にしたらいいのではないでしょうか?子供たちは楽しみにしていた修学旅行に行けないことに落胆や不満があるでしょう。いや、落胆や不満という時点で与えられているものの要素が多いですね。与えられている現状からの脱却が必要ですね。
 じゃあどう思うかな。
 自分たちで旅行を計画しよう。お泊り会を開こう。修学旅行ルートを自分で調べてレポートにまとめよう。バーチャルで修学旅行をしてみよう。
何かに代替えする。
 という思考が出てくるわけですよね。この思考の習得はかなり大事だと思います。与えられている側では身につかない思考ですね。
「可哀想」と思ってやってあげることでこの機会が失われているのです。

結論:かわいそう と思う方が かわいそう

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