初めてのN.Y.とライブ
海外に、特に時差が大きい国に行くとき、その時差ボケをどう解消するか。人それぞれやり方があったり、工夫があるのではないかと思うのだが、皆さんどうしているのだろう?
僕の場合、出発前日まで何もせずに徹夜で準備をして、あとは機内で爆睡するのが、いつものやり方。
もちろん夜中に準備できないものは前もって済ませておくので、用意するのは渡航先の気候にあった着替えなどの身の回りのものくらい。なので、焦って用意する、と言う感じではないのだが、とりあえず徹夜で用意する、と言うのは今でも続くルーティンだ。
あとは、搭乗したタイミングで、腕時計を現地時間に合わせる。機内食はなるべく食べないようにする。そして現地に着いたら、なるべく早めにタンパク質――簡単に言えばお肉系をがっつり食べる。
と、まあ、そんな感じだろうか。
さて、それは初めてニューヨークに行った時のこと。
例によって徹夜で用意を始めた僕は、当日の朝、防寒着でパンパンになったスーツケースを転がしながら成田空港に向かった。搭乗予定の飛行機は、午前出発のJFK直行便だった。
予算の限られた仕事だったので、残念ながらシートはエコノミー。だが、運良く足元の広いエグジットシートを確保できた僕は、離陸前から足を伸ばして爆睡していた。
どのくらい時間が過ぎていたのか。ふと気づくと、すでに機内の照明は落とされていて、ほとんどの人がシートを倒して眠っていた。あとはモニターの明かりがポツリポツリと見えているだけ。
一度トイレに行ってから座席に戻ったタイミングで、若い客室乗務員の女性が僕に声をかけてくれた。
「お目覚めですか? よろしければお食事をお持ちしますか?」
海外の航空会社だと、叩き起こされて強制的に機内食を食べさせられることも多いが、こういう気遣いのあるのが日本の航空会社のいいところ。
エコノミー担当の彼女は、おそらく僕の目が覚めるタイミングを待っていてくれたのだろう。
そんな彼女に申し訳なく思いながら、「ご飯はいらないです」と伝えると、
「お飲み物はいかがですか?」
と、そう言ってくれた。
缶のビールをリクエストした僕は、読みかけの文庫本を取り出して、一緒もらったナッツをつまみながら物語の続きを読んだ。そして、きりのいいところで再び目を閉じた。
次に目が覚めたのは、ドスンという、着陸の衝撃が体に伝わった時だった。着陸準備の時に起こされることがなかったのは、シートを倒さず寝ていたからだろう。
僕は降機する際、他の客が降りて機内が空くまで、自席に座ったまま待つことにしている。イミグレーションで後列に並ぶのとどちらがいいのか、それも悩ましいポイントだが、まあ、大体の場合、一番最後に降機する。だからこの時も、一番最後に降りようと思っていた。
「ニューヨークで演奏されるんですか?」
対面シートに着座していた例の彼女が突然口を開いたのは、到着ゲートに向かって地上を走っている時だった。
「え?」
突然声をかけられた僕は、なんとなく眺めていた窓外の風景から、正面に顔を向けた。
「テナーサックスですよね?」
おそらく彼女は、僕がサックスのケースを荷物棚に入れるところを目にしていたのだろう。
「ライブハウスですか?」
「ええ、まあ……」
「素敵ですね」
ニコニコしながら話しかけてくれる彼女は、とても可愛く見えた。それが彼女と僕、二人の最初の出会いだった――。
――なんて話ならとても良かったのだが、残念なことに現実はそう甘くない。
実はこの時、ついでに現地まで持って行って欲しいと頼まれて、テナーサックスのケースを一つ預かっていた。ケースだけなので、もちろん中身は空っぽ。それを荷物入れに入れてあったのを、僕はすっかり忘れていた。
寝ぼけていたせいなのか、初めてのN.Y.にすこし浮かれていたせいなのか、その理由がなんだったのかはわからない。もしかしたら、本当に彼女が可愛かったからなのかもしれない。
とにかく僕は、向かい側で可愛らしく微笑む彼女に、そう返事をしてしまったのだ。いえいえ、ケースを預かってきただけなんですよ、って言えば良かったのに。
そもそもだ。ライブどころか、触ったこともないテナーサックスなんて、僕に吹けるはずがないではないか。
そんな心情をよそに、なんだか物凄く目をキラキラさせながら僕を見ている彼女に対して、いまさら「冗談です」とは言えなくなってしまった。
僕はいつものルーティンを破って、シートベルトサインが消えた瞬間に立ち上がった。そして、空っぽの高級ハードケースを重そうにコンパートメントから下ろして、そそくさと降機の列に並んだ。
「頑張ってくださいね!」
ダメ押しに彼女にそう言われた僕は、「ありがとう」と、曖昧な笑みを浮かべて、飛行機を降りた。
実は、この話はここで終わらなくて。
JFKのイミグレーションはすでに列ができていて、やれやれ、と思いながら僕もその列に並んだ。しばらくして、ようやく自分の順番が来たちょうどその時、搭乗していた便のスタッフがイミグレーションに到着した。もちろん彼らは専用レーンなので、同じ列ではなかったのだが、たまたまその近くに並んでいた僕は、例の彼女とまたしても顔を合わせることになってしまった。
彼女は僕に気づくと、軽く会釈をして微笑んだ。僕もとりあえず会釈をして、入国審査を通過した。
こんなことがあって、結局僕は、空港を出るまでずっとケースの中にテナーサックスが入っているフリをし続けたのだった。
迎えの車に乗るときに、一緒に行ったスタッフに
「きりさん、そのケースってそんなに重たいんですか?」
と聞かれたので、事の顛末を話したら、盛大に笑われた。
これが、僕の初N.Y.の時の忘れられない思い出。
ちなみに、イミグレーションで「Are you Musician?」と聞かれて「イエース」と答えたのは、僕だけの秘密だ。
(エッセイ・202407)
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