片岡義男とコーヒーとラーメンと

 作家、片岡義男氏をご存知だろうか?
「スローなブギにしてくれ」「ボビーに首ったけ」「彼のオートバイ、彼女の島」など、タイトルを聞けば頷く方もたくさんいらっしゃると思う。

 残念ながら、出版されていた書籍のそのほとんどが絶版となってしまったが、現在「片岡義男.com 全著作電子化計画」と言うプロジェクトのもと、かなりの数の作品がweb上で読めるようになっている。ご興味のある方はぜひこちらで読んでみて欲しい。

 片岡氏の書く小説にはオートバイが出てくることが多い。そのショートストーリーの中の一つに、真夏に友人とオートバイで走る話がある。タイトルは忘れてしまったが、とにかく暑い日にバイクで走るのだ。読んだのはおそらく高校生くらいの時だったと思う。

 バイク乗りならわかると思うが、真夏のバイクは本当に暑い。ヘルメットの中は汗だく、エンジンはまるでストーブのよう。さらに基本は長袖長ズボン着用なので(主人公達は真っ白なTシャツとジーンズ、革のグローブだけでカッコよく走るが、まあ、そこは物語)、その暑さは倍増する。

 話を戻すと、そんな暑さの中、二人はバイクを止めて喫茶店に入る。そこでコーヒーを注文するのだが、出てきたのはアイスコーヒー。
 主人公が「頼んだのはホットコーヒーだ」と言うと、店員の女性はそのアイスコーヒーを下げ、少したってから改めてホットコーヒーを持ってくる。
 そしてそのホットコーヒーを一口飲んだ主人公がこう言うのだ。 

「あの店員、さっきのアイスコーヒーを温め直して出してきやがった」

 いや、それだけ暑かったらアイスコーヒーにすると思う。普通。そしてアイスと勘違いされても、まあ仕方ないと思う。 

 だが、氏の語り口は何故だかかっこいい。――いつか自分もあんな風に言ってみたい。そう思った。

 それから僕は、真夏でもホットコーヒーを頼むようになった。いつかどこかで、バイクを降りて入った喫茶店とかで、間違えてアイスコーヒーが出てきて、文句を言ったらそのアイスコーヒーが温め直されて出されてくるその時を、ずっと待っていた。 

 ところが、数十年経ってもそんな場面は一度として無く、結局、暑い日には素直にアイスコーヒーを注文するようになってしまった。


 ここで話はガラリと変わって。


 昔住んでいたマンションの近くに、一軒の中華屋があった。カウンターと四人がけの小さいテーブルが二つか三つあるような、どこにでもあるような地元のお店だった。良かったのは、何を注文しても味は悪くなく、掃除も行き届いて綺麗だったこと。歩いてすぐだったこともあって、僕は時々その店にご飯を食べに行っていた。

 唯一問題だったのは、ご夫婦で営まれているらしきその中華屋の主人と、出前担当だと思われる大学生くらいの御子息との仲がものすごく悪かったこと。
 出前に行く行かない、作るのが遅い遅くない、俺にやらせるな、いやお前がやれ、と、カウンターの中と勝手口のあたりでいつも喧嘩をしているのだ。 

 そんな中華屋に晩ご飯を食べに行った、ある日のこと。相変わらずの親子喧嘩の中、注文したのは醤油ラーメン、麺固め。それと餃子を一枚。
 だが、しばらく待って餃子と一緒に出てきたのは、普段ほとんど頼まない味噌ラーメン。

「あれ? 醤油って言いましたけど?」
「え? あ……」 

 普段はまあまあ愛想のいいご主人が、この日に限って無言のまま、カウンターからどんぶりを下げた。僕は仕方なく、餃子をつつきながら、いつもの親子喧嘩を聞くともなしに聞いていた。

 餃子を食べ終わってしばらくたった頃、醤油ラーメンが出来上がってきた。だが、そのラーメンを一口食べると、違和感があった。

 まず麺がデロデロに伸びている。固めって言ったよね? そしてスープもなんだか不思議な味がするのだ。
 なんだこれ? と、思ってよーく見てみると、なんと、伸びた麺や具に味噌味のスープが絡んでいるではないか!

 えっとこれは……もしかしてあれだろうか?

「この店主、さっきの味噌ラーメン、スープだけ捨ててそのまま醤油のスープ入れて出してきやがった!」

 ――って、こんなこと世の中にある?

 延々と続いている親子喧嘩の中、僕は味噌の味がするその伸びた醤油ラーメンを黙って食べた。店を出た後、ふと例の小説を思いだした僕は、一人笑いながら夜道を歩いた。 

 事実は小説よりも奇なり。

 だが、僕が体験した現実は、残念ながら小説よりもずいぶんとカッコの悪いものであった。

 その「片岡義男ラーメン事件」から数ヶ月して、例のお店は潰れてしまった。少し残念にも思ったけれど、あの一件以来、僕もその店に行くことがなかったので、まあ、なるようになったのだろう。 


 あれからかなりの年月が過ぎたが、真夏にオートバイに乗るたびに、片岡義男のあのかっこいいストーリーと、少しもカッコよくない僕のあの中華屋での出来事を、未だに思いだす。


(エッセイ・2024.07)

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