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斎藤茂男 ルポルタージュ 日本の情景 #3

少し前に角田光代『紙の月』を読んでいて思ったのことの一つが、「この人( 注:光太という登場人物。大学生。)いまは50代か…」というものだった。フィクションであっても、ついそういう年齢計算をしてしまう。これは個人的な癖みたいなものだが、斎藤茂男の一連のルポルタージュを読んでいくうえで、この癖はむしろ必要な作法のように思われる。

斎藤茂男著作集はだいたい70年代から90年代初頭までの彼の仕事が、ほぼ年代順に収録されている。『わが亡きあとに洪水はきたれ!』は74年、最終第12巻『新聞記者を取材した』が92年、読んでいる間はすっかり忘れてしまいがちだが、時代の隔たりが相当あるわけだ。ただ「すっかり忘れてしまいがち」にさせるのは、彼の書く文章に、いわゆる「同時代人」にしか通用しない固有名詞、いまでは「死語」となった言葉が使用されていないことによる。逆に「親ガチャ」とか「サ終」とか、まあなんでもいいが、そういう言葉を果たして50年後の人が読めるのかどうか…

本著作集に登場するいまでは死語となった同時代的な言葉の、数少ない例の一つが「モーレツ」だ。「死語」というより「遺跡」のような言葉だが、この言葉が象徴的に放つ”昭和臭”も含めて、いまの若い世代に説明するのは、思うほど簡単ではないかもしれない。それって「社畜」「ブラック」「パワハラ」のことっスよね、と言われれば、まあ、間違ってはいないが……。

1970年代の「高度成長」をいわば裏側から取材したのが『わが亡きあとに洪水はきたれ!』だと言っていいだろう。そこで書かれているのは、生気を失っていく(あるいは死んでいく)労働者たち (注:この時代はまだ「過労死」という言葉はない)、 過酷で非人間的な労働環境、 経営側に迎合する組合の(!)同調圧力… など幾多もあるが、ざっくり一言で言えば、人がモノ化された「風景」だ。安い労働力として投入される”金の卵”たち。当時10代から20代の彼らは、会社にこき使われた挙句、失意のうちに数年で辞めていく。「高度成長」のブーストの燃料とされた人たちは、いま、生きていれば、だいたい70歳代である。で、筆者が後見人をつとめている人たちのほとんどがこの世代なのである。つまり、彼ら彼女らの、若かりし頃の記録を読んでることになる。若い時分には搾取され、年老いて認知症となり、わずかな年金(注:年金がない場合は生活保護)で残りの人生を生きている……たとえば、筆者が後見人をつとめている人に次のような来歴の方がいる。

田中さん(仮名)は75歳の女性。東北S市出身。中学卒業後、首都圏のクラブに勤務。その間に結婚。息子二人をもうけるも、離婚。その後は飲食店の清掃のパート、ホテルの仲居で生計を立てる。失業を機に生活保護を開始。アルコール依存の既往歴があり、うつ傾向。近年、認知症を診断された。現在、ケースワーカー、ケアマネージャーら支援者のサポートを受けながら、都内S区のアパートで独り暮らし。

『わが亡きあとに洪水はきたれ!』には”水商売”という”産業”は俎上に載せられてはいないが、「モーレツ」サラリーマンのはけ口を「高度成長」と切り離すことができないことは、直感的に分かると思う。彼女もまた、「高度成長」に搾取された人の一人だ。で、その田中さんにそっくりな生い立ちの人たちが、本著作集第7巻『父よ母よ!』に登場するのでまた驚いた。『父よ母よ!』は両親のいない子供たちを北海道の教護院で取材したルポルタージュで始まるのだが、そこの職員がこういうのである。

いま収容児の大半が小学生です。それらの子どもは父親の手元に残された子、つまり母親に捨てられた子が多くて、私が担当する八人の場合も六人までが母のない子です。子どもを養護施設に入れなければならないような親たちには、共通点があるんです。まず親の年齢が若いこと、ほとんどが中学卒の学歴であること、高度成長期に東北や九州から集団就職で都市に出てきた人たちであること、そして、職を転々とし、いまは職業が不安定であるか、せいぜいちゃんと勤めているとしても、零細下請け企業とか水商売的なお店といったところ、そういう人がほとんどなんです。男も女も中卒で都市へ出て職を転々とするうちに知りあい、いっしょになる、子どもが生まれる、生活が苦しいので母親がまた働きに出る、手っとりばやく収入が得られて、そういう彼女たちを使ってくれるところと言えば水商売しかない、夜の勤めをつづけるうち夫に不満がつのる、けんかをする、妻にべつの男ができる、子どもを置いて飛びだしてしまう、子どもをかかえて夫は働けず、生活に行き詰って駆けこんでくる……こういうパターンがじつにおおいんですねえ

斎藤茂男『父よ母よ!(上)』(岩波書店、1994年)

実際、本書を読み進めると、確かにこのパターンが頻出する。さらに言えば、アルコール依存と虐待(暴力/ネグレクト)がこれに加わる。前述の田中さんが離婚して二人の息子と別れたのが74年。ちょうど斎藤のルポが発表された年である。田中さんは離婚以来、子どもには一度も会っていない。後見の申立てをする上で、田中さんの戸籍から息子二人の現住所まで調査したのだが、長男は結婚と離婚を二回して現在は独り。次男は、養子縁組がされ(注:非行や犯罪に走った可能性が考えられる。もちろん、あくまで可能性であって別の事情もありえる)、その後、結婚、離婚、再婚と……姓が三回変わっている。現住所はそれぞれ北関東の某市。すぐさまググったら、表示されたストリートビューがまたしても驚くべきものだった。つい先日東京都写真美術館で観たばかりの『略称・連続射殺魔』(1969年)で活写された永山則夫の風景にそっくりではないか!

半世紀以上前の風景と現在の風景のこの奇妙なオーバーラップをどう考えればよいのか。「貧困の連鎖」などと言って分かった風になったとしても依然として残る、この”変わらなさ”の謎。結局のところ、「日本の情景」をいま読んで突きつけられるのは、この”変わらなさ”、進歩のなさなのである。(つづく)