死生観

 全ての人に死は等しくやってくる。もしかしたら今日かもしれないし、明後日かもしれない。人間の寿命が10年延びようと、20年延びようと死が訪れる時は誰にも分らず、不規則で、絶対的だ。ストレスは人を蝕み、患わせる。悪質な労働環境で心身共に擦り減らし、のしかかる重圧に耐え切れずに自殺する姿を実際に視て、報道でも見た。そこに残るのは哀しみとストレスからの解放だけの様に思える。けれど中には交通事故や殺人事件に巻き込まれ、未来を見据え希望を抱いて生きていた人も死んでしまう人も少なからず存在する。いくら夢のために努力しても、死んでしまえばその人に残るものは頑張った勲章だけだ。私はこの勲章を余りにも哀しく、不憫に思う。


 小さい頃から死について話すのを不謹慎だとか、不配慮だとか理由付けし、タブーにしているのが私にはさっぱり分からなかった。よく若いから死について考える必要はないし、親不孝だからやめなさいとも言われた。しかし、私は「死」といういつやってくるかも分からない、待ってくれない絶対を考えずに死にたくはない。死に際に後悔をしたくはない。


 私はこれまで、自分に必要だと思ったことは実行するが、必要性の見出せない嫌なことは避けて生きてきた。これは私のこれまでの生き方であり、これからの生き方だ。自分にとって必要でないモノには継続的なストレスを受けてまで極力触れたくはないし、触れるつもりはない。私はいつ死んでも「生きていて良かった」と思いたいのだ。


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