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マスクという希少資源を求めて

 子どもたち習い事のお迎えが終わり、家内が「スーパー行ってきて」というので、爽やかに晴れた冬の夕方を堪能すべく散歩がてら駅まで歩いていったんです。そしたら、馴染みの薬局で「お一人様、3箱限り マスクあります」って書いてあるわけですよ。

 そんなマスクごときで動じるようじゃ、都会生活は送れませんね。

 コロナウイルスの流行は大変です。でも、マスクがあったからと言って、右往左往してるようじゃ人として駄目だと思います。マスクなんて天下の周りものなんですから、たまたま売っていたからと言って平常心を失うようでは人間として駄目ですよね。

 私はそう思いながら慌ててポケットから携帯電話を取り、今日仕事が休みで発熱した三男氏を看病していた家内に急いで連絡を取ったのです。

「ママ! マスクあるってよ!!」

そりゃあもう、山本家緊急司令、速やかにマスクを確保せよ。無事発令であります。

 薬局の前にはマスクあるぞと聞きつけた人びや、乗りつけた自転車を停める人の姿もあります。まだ売り始めなのに、次々と棚から消えていくマスク。いそいそとマスクを抱えレジの前に並ぶ人が増えるたびに、臨戦態勢となった私の鼓動が早まります。

 棚には残り少なくなったマスクが並んでいます。まさに、私に買われるのを待っているかのように。待ってろよ、いま買ってやるからな。

 私は烈火の勢いで突撃し、マスク3箱を無事確保。レジの前に誇らしく並んでおったわけです。やった。私はやったぞ。家族を大事に思う父親の役割を全うして、そのときは満足しました。

 理性では「マスクなどしても、そこまで感染症対策にならないかもしれない」と分かっています。しかし、マスクをしている安心感、無駄に近いとはいえ対策をきちんと打っているという実感が大事なんですよね。だから私は、時間をかけてこのレジに並んでいる。並んでいるのだ。そう、自分に言い聞かせているのでした。

 最後におっさんがマスクを3箱取ると棚からマスクは無くなりました。

 そこへ、幼稚園ぐらいの女の子の手を引いたママが、マスクのなくなった商品棚を呆然と眺めています。可哀想に。買えなかったんだね、可哀想に。

 私とその母子の間には、さっきの3箱のマスクを抱えたおっさんしかいません。おっさんは、うつむきがちにブツブツ言いながら大事にマスクをしっかりと持って、周辺と目を合わせようとしないのです。

 途方に暮れた母親の手をしっかり握りながら、女の子がふと振り返って… 私と目があってしまいました。

 おそらくは、インフルエンザや花粉症のシーズンを迎えてただでさえマスク需要が高いところへ、中国武漢のウイルス性肺炎が猛威を奮っているので、まるでオイルショック下のトイレットペーパーのように皆がマスクを買い求めていることなど、女の子ははっきりとは認識していなかったことでしょう。でも、欲しいものが買えなかったことは、よく認識しているようでした。そんな出遅れた母子が、物欲しそうにこちらを見ています。

 やっぱこう、一人3箱までという運命(さだめ)のある世界で、私が行使できる自由というのは譲るか、譲らないかだけですよね。このマスクがなければ、この母子は何かに感染してしまうかもしれない。いや、所詮マスクなど気休めだ。たいした感染防止効果などありはしない。でも、ならばなぜ、私はこの列に並んでいる? 家内に頼まれたからか? 

 先週、ちょうど拙宅三男氏が40度の熱を出して入院したのですが、親として、子どものちょっとした体調の変化で一家の暮らしが激変してしまうことはあり得ます。そういう大変さを、この母子は味わってしまうかもしれないのです。

おっさんに、最後の「お前も譲ってやれよ」という視線をくべつつ、それが無駄と悟ると、私は女の子に声をかけました。

「ひと箱、いる?」

つぼみがパッと花開いたかのように、女の子は優しい笑顔をくれました。

「いるーー!」

 そばにいるお母さんも丁寧に御礼をしてくださり、私からマスクの箱を受け取ると、列の最後に並んでいました。まるで、ディズニーランドのポップコーンでも買うかのような足取りで。良かったね。私のお陰だよ。良かったね。

 その際に「あのお爺さん、マスク譲ってくれてよかったね」と背中越しに母子が喋っているのを見て、心にほのかな後悔は芽生えたものの、「やっぱり返せ」と申し伝えるまでには怒りゲージは溜まりませんでした。

 人が善行をしたときは、した側された側お互い気持ち良いように配慮するのが一番だと思います。

 その光景を見ていたのか、別の母子が声をかけてきました。たどたどしい日本語で、どうも旅行者のようでした。

 幸い私も多少は漢語ができるので、ほんのり話したら中国からの滞在者でした。

「マスクを少しでいいので譲っていただけませんか」

 漢語が通じるのが分かると、中国人母子はなかばホッとしたように、それでいて縋るように、声をかけてきました。私の胸には2箱のマスクがあります。さっきのように、1箱譲ることは、できる。しかし、店内にはマスクが売り切れているのを知ってがっかりしている客の姿があります。

 残り少ない資源(リソース)で、誰を助けるか。トリアージの世界は人間の理性と感情を試します。入院した6歳の三男ほどの背格好の女の子を連れたこの中国人母子が、数秒、私を見つめているのを見て、私は思わずマスクを1箱、譲ってしまいました。

「どうぞ」

「ありがとうございます、ありがとうございます」

 繰り返し謝謝を述べ、差し出した1箱を丁寧に受け取ると、中国人母子はレジの最後尾に並びました。手に残るは、最後の1箱。さすがにこれは、私は責任もって愛する家内や子どもたちのために買って帰るのだ。もう誰とも視線を合わせない。私は後ろに並ぶおっさんと同じように、うつむき、ただ自分が買える番を待ちました。

 会計が無事終わり、レジ袋に入ったマスクをカバンに大切にしまったあと、振り返るとほどなく会計を終えた日本人母子が頭を深く下げて、女の子は手を振って帰路につきました。そこまでの善行はしていないけど、ちょっと心が暖まる瞬間です。

 …と、今度は中国人母子が出てきて、同じように笑顔でお互い会釈をすると、近所に止めている自転車に父親らしき人がマスクを乗せようとしているではありませんか。と思いきや、その自転車の前後のカゴには大量のマスクの箱が… おいおいなんだそれは。

 中国人母子は事情を説明しているのか、父親に指差しで私を示しながら会話をしている姿が見て取れます。そのまま私も立ち去ろうかと思いましたが、帰りに近所のスーパーに寄るかどうかという家内からの指令をその場で待っていました。

 微妙な間が過ぎた後、父親が私のところへやってきました。

「先ほどはありがとうございました」穏やかな笑顔と流ちょうな日本語で御礼を述べ、こちらも応じたあとで「実は私たち、武漢や黄岡(同じく感染拡大警戒のために都市が封鎖されている)に親族を残してきていて、どうしてもマスクを送ってやりたくて探し回っていたのです」

 そうでしたか。転売する業者かと思っててすいませんでしたと言いたい気持ちをグッとこらえて、それは大変でしたねと答えると、ひとしきり、家族が心配であること、大事にしている人を想う気持ちは日本も中国も変わらないことなど、数分の立ち話でも随分心の通う会話ができました。

 中国人一家に手を振って別れた後、マスクを買えたか心配そうに連絡をくれた家内に顛末を説明しつつ、スーパーでの任務を終え帰宅してみると… そこには家内が「こんなこともあろうかと」買い込んだマスク&除菌グッズの山が!

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 しっかり者の家内が万全の対策をしていたことが分かる一方、目の前の状況に流され続ける私の至らなさを深く反省する次第でありました。

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神から「お前もそろそろnoteぐらい駄文練習用に使え使え使え使え使え」と言われた気がしたので、のろのろと再始動する感じのアカウント