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藤田正美さん、本当にありがとうございました

 訃報が飛び込んできたのが東京に戻る飛行機に乗る直前でした。しばらくご体調を崩しておられたのは存じていたので覚悟はしていたものの、もうお目にかかれることもないのだなと思うと一週間ほど気分の晴れない、実にぐずぐずとした日々を過ごしております。現在進行形です。

 藤田正美さんは私にとって海外事情の調査や情報分野における先達、先輩にあたり、特に紛争地域になりそうな、それでいて日本人や日本企業、日系資本が関わる状況予測の大事さについて良く語り合い、また取り組みでご一緒してきました。何度危ない橋を渡ったか数え切れませんが、かろうじて、どうにかなったのはご教導の賜物とも思っております。

 藤田さんに何かを教え込まれたというよりは、物事に取り組む際の心構えや考え方についてアドバイスを頂戴し、その後は「自分で考えろ」というスタンスを藤田さんは貫いておられたこともあり、どっちかというとメンターとかそういう感じでしょうか。藤田さんからお話を頂戴するときは「まあそういうこともあるのかな」という内容なのですが、実際にコトに当たってみると「おわ、そういうことか」と思うことがしばしでした。良い意味で、導いていただいていたのだなということは強く感じます。

 ところが、ご病気が発覚する前に行きつけの中目黒の小料理屋に呼ばれてしこたま飲んだ折、ある頼まれごとの報告をした際「これで山本君も免許皆伝だな」と突然言われ「何の???」となったのも良い思い出です。弟子だった覚えはないし分野も違うので微妙なところではありますが。

 あまり表では書かないほうがいいようなご相談事もたくさんやりとりしてきた一方、藤田さんが口を酸っぱくして私にお話されてきたことは「情報を扱う人間は、なにかあったとき、誰かに説明できないような仕事の仕方だけはするな」でありました。これはまあ、情報界隈において劣勢が明らかな日本はババを引かされがちであるからこそ、いつなんどき梯子を外されても大丈夫なように、という意味もあるのでしょうが、戦後の日本人の在り方において「誠実に生きる」ことが弱者の武器になることもあるのだ、ということを仰いたかったのだろうと感じています。

 このままでは日本は負け組になる、いつまでも米欧の出先機関のままになる、米中対立の最前線である東アジアで使い捨てにされるといった危機感をずっと藤田さんが持っておられたのも、ときとして、米民主党国際派の手先と揶揄されることも多かったニューズウィークを日本語版創刊からずっと長く扱ってこられたご経験からのものなのかなとも思います。

 その結果、徐々にではありますが日本もようやくセキュリティクリアランスも含めた仕組みに着手し、重要土地取引制限、犯罪収益取引規制などに加えてスパイ対策、対テロ、サイバーセキュリティなどの防諜の有りようが徐々に着地してきたのもまた、官民で問題意識をそれなりに共有し、取り組むべき課題を明確にしながら進めてきた成果だろうとも言えます。もちろん、現状もまだまだ不十分の極みですが。藤田さんがずっと脱戦後にこだわり続けてこられたのも、経済だけ頑張って安全保障はアメリカとの同盟に依存するだけの日本という国情からの決別をお考えだったからなのでしょう。

 もっとも、振り返れば私も「何でこんなことをして苦労してるんだろう」と疑問に思うことも一再ならずあり、その都度、愚痴めいた相談を藤田さんに投げかけてきました。藤田さんはとにかく聞いてくれる人なので、にこやかに全部話を聞き終わった後で、ご自身の見解や経験談などを手短に披露してくださるという毎度の流れがありました。これから、そういう悩みを私が抱えたときに、果たして誰に聞いていただけるのだろうという不安もありあます。むしろ、私ももう中年なのだし、身の回りにいる若い人たちに何かを伝えるべき立場なのかもしれませんが。

 年初に「ご状況いかがですか」と一献のお誘いをした際は、いつものように照れながら「水温(ぬく)むころに」と折り返しを頂戴し、その後、愚にもつかぬ対話はありましたがしばらくお目にかかることもないままお別れとなってしまったのは何とも残念なことです。藤田さんはまぎれもなく私をこの世界に誘(いざな)ってくださった恩人というか犯人のおひとりであることは間違いなく、私自身が認識していなかった才覚を見出してくださいました。感謝にたえません。

 佐々淳行さんやこの界隈の達人の皆さまと同様に、殺されても死ななさそうな雰囲気を漂わせながらも、ふっと、じゃあなと背を向けて去っていかれるような感覚を抱きます。あまり申し上げるのも変ですが、00年代以降は、間違いなく日本人、日本社会の安全には皆で陰ながら、わずかでも貢献できたことはいまでも誇りに思っていますし、残された側の人間として、引き続き、いままでと変わらず自分にできることは可能な限り弛まず取り組んでいくつもりです。

 いまでも「お前の働き方は早く潰れかねないから良くない」とか「家族のことを外で書き過ぎだから控えたほうがいい」など、他にも痺れるようなご忠告をさんざん頂戴してきたことが、本当に昨日のことのように思い出されます。うっかりすると、担がせていただいた棺桶ごと霊柩車に乗って語り明かしたい気分にすらなりました。

 家族と言えば、二度だけ、奥さま、娘さんたちと、数人おられる非常に出来の良いお孫さんたちについて満面の笑みで自慢話をされたのをよく覚えています。話のついでに私がお世話できることがあれば遠慮なく仰ってくださいとお話をしたら「うちの孫はそういう苦労ばかりする仕事はさせたくないから」と間接的にDISられた一方、皆さん泣き腫らした目で最後まで立派に祖父を送っていたのは立派でした。

 ずっと心は晴れずに悶々としていた一週間あまりでしたが、最後、ご挨拶だけでもできたのは僥倖でした。数えると20年ほどのお付き合いでしたが、藤田さんの仰る「良い中年になって社会を明るくしよう」に、一歩でも近づけたでしょうか。

 お見送りをした最後まで、喪服が汗でびっちょりになるほどカンカン照りの晴れやかな一日でした。ありがとうございました。


神から「お前もそろそろnoteぐらい駄文練習用に使え使え使え使え使え」と言われた気がしたので、のろのろと再始動する感じのアカウント